戦姫の墓標
背の高い針葉樹の間を縫うようにして進むと、やがて大きな湖が出迎えてくれた。
その湖のそばに佇む白い建物こそが、奇跡の女神の神殿である。
屋根には奇跡の女神の遣いであり守護者である聖獣が彫り抜かれていて、侵入者を逃すまいと睥睨している。その屋根を巨大な大理石の柱が支えている。
静謐をたたえる神殿は、鏡のような湖面にその身を映すことで、より神秘的な美しさを演出している。
伝説では、奇跡の女神は湖面の中の神殿に姿を現すという。
シュトラールはふたりをここまで運んだあと、ようやく解放されたとばかりにどこかへ走り去ってしまった。
「ここが女神の神殿か。この地を守護しているという威厳に満ちあふれているというのに、いままさに建築されたかのように美しいな」
アシェルが神殿を見上げて感嘆の声をこぼした。
エミリアはその隣に並んで、心の中でつぶやいた。
ここは私の最期の場所。
フェルゼンに攻めこまれて追いつめられたエミリアは、この神殿に逃げこんで、森の向こうに見えるアインホルン城を眺めてそのときを待っていた。
ユニコーンの角を想起させる無数の尖った屋根から、天を焼き尽くすように火柱が立っていた。エミリアは美しく荘厳な城が火の海にのみこまれていく様子を悲憤に満ちた面持ちで眺めながら、物語の魔王のように英雄を待ちつづけた。
負けるつもりなどなかった。
それでも、戦姫か、英雄か、そのどちらかが死ぬのだと理解していた。
その場所でいま、ふたりが並んで奇跡の女神の神殿を見上げているなど、誰が予想しただろうか。
「基本的に祭事以外に使用することはありませんが、私はよくここに祈りを捧げに訪れます」
エミリアは何か話をしなければと話題を出したが、アシェルの反応はなかった。
「アシェル様?」
アシェルの頬が濡れていた。
物悲しげに細められた目元から、次々と涙の雫がこぼれ落ちていく。
あのアシェルが泣いているという異常事態に、エミリアはひどく混乱した。
「どうされたのです? まさか、どこか怪我を?」
心配するエミリアに、アシェルは涙を拭うことも忘れて尋ねた。
「俺は、ここに訪れたことがあっただろうか」
「いいえ。アシェル様をご案内したのはきょうがはじめてです」
「そうだな。そのはずなのに、なぜだろうか」
アシェルは痛みをこらえるように眉根を寄せた。ぎしりと奥歯を強く噛みしめる音も聞こえてくる。
とまどうエミリアだったが、アシェルの反応からある仮説に思い至った。
アシェルにも聖戦の記憶があるのだろうか、と。
理由のわからない感情に混乱している様子から、はっきりと記憶がよみがえったわけではないのだろう。しかし、その残滓が彼の中に残されているのかもしれない。
ならば、アシェルにとってここは悲願を果たした場所になるのだろうか。だが、いまのアシェルは勝利への感涙にむせんでいるようには見えなかった。
それほどまでに、彼の涙は見る者の胸をしめつけるような悲しみに満ちていた。
「悲しいのですか?」
エミリアはためらいながら、アシェルの目元に指をのばした。
アシェルは心地よさそうに目を細める。
「わからない。だが、そう思う」
アシェルらしい、とエミリアは切なげに微笑んだ。
思えば、敵のエミリアに己の誇りを説いた男である。
猛々しくそれでいて優しいアシェルは、エミリアの死を悼んでくれたのかもしれない。
エミリアの屍を抱いて、涙を流すアシェルの姿が容易に想像できた。
「不思議ですね。私もなんだか切ない気持ちになるのです」
「きみも?」
「えぇ。でも大丈夫です。私にとってこの場所は、あなたが連れ出してくれた思い出の場所になりましたから」
エミリアが微笑むと、アシェルは瞠目して、照れくさそうな顔で言った。
「あぁ、そうだな。きみといて悲しいなどあるはずがない」
アシェルの涙はもう止まっていて、いつもの凛々しく勇ましい英雄の顔をしていた。
「エミリア。触れてもいいだろうか? 嫌なら断ってくれていい」
涙の余韻を残す瞳で見つめられて、エミリアは顔に熱を感じながらこくりとうなずいた。
アシェルは両腕を広げると、エミリアの存在をたしかめるように優しく抱き寄せた。
はじめての抱擁に、エミリアは既視感を覚えていた。そして、その理由に気づいたとき、じわりと目の奥が熱くなった。
命の火が消えるあの瞬間まで、エミリアはアシェルの腕の中にいたのだ。
帰ってきた、と思うのがおかしくて、エミリアは目尻に涙を浮かべながら小さく笑う。
エミリアはアシェルの背中に腕を回して、その肩に顔を埋めた。




