キルシュブリューテ王女の死
聖戦終結の十年前。女神歴3490年。このころ、聖戦の火種となるほど膨大なエネルギーを持っていた国がエーデルシュタイン、フェルゼン、ドラッヘ、ヴェルメの四国である。
なかでも奇跡の女神から力を与えられた一族である「戦姫」を擁するエーデルシュタインと、すべてを破壊し消滅させるという強力な魔術を扱う魔術師「フェルゼンの英雄」を擁するフェルゼンは、土地をめぐって長年敵対していたこともあって、この二国を中心にして聖戦が勃発した。
エミリアの新たな使命は、この聖戦を回避することである。
時間をさかのぼる旅から目覚めたエミリアは、おそるおそる目を開いた。見覚えのある白い天井がそこにある。
ゆっくりと上体を起こして、見える範囲で自分の体を確認する。腰までのばしていた髪は肩よりすこし長いくらいで、頬は丸く瑞々しい。小さな手の平は、神槍をにぎり慣れていないのか、マメがつぶれていた。
本当に十年前にもどってきたというならば、エーデルシュタイン王国の第一王女で当時八歳だったエミリアは、膨大なフランメを制御することに苦労している時期である。
「ここは、私の部屋?」
きょろきょろと周囲を見回す。家具や絨毯、カーテンの色まで記憶にある自分の部屋そのものだ。
開いた窓の向こうには、美しい緑と青々と輝く湖が見えた。
聖戦で焼き尽くされたはずの豊かな大地がそこにあって、エミリアは泣きたくなった。この美しい国を守ることができなかったのだから。
「おはようございます、姫様」
エミリアがあわてて振り返ると、ティーカップに紅茶を注いでいる侍女の姿があった。
目を見張るエミリアに、緑色の瞳が優しく細められた。年齢は十五、十六くらいの、勝気そうな美しい少女である。
「グレーテル?」
存在をたしかめるように名を呼ぶと、グレーテルと呼ばれた侍女はベッドの上に座るエミリアの顔を覗きこんだ。茶髪の横髪がふわりと揺れる。
「まだ寝ぼけていらっしゃるのですか? 頬によだれのあとがついておりますよ」
つんっと頬をさされて、エミリアはあわてて口の端を指で拭った。
「冗談ですよ」
グレーテルは悪戯っぽく笑った。
ちょっと意地悪なところがエミリアの知るグレーテルそのもので、目頭が熱くなる。
エミリアの唯一の友であり、姉のような存在だった彼女は、フェルゼンの騎士からエミリアをかばって犠牲となった。
ぽつぽつと涙をこぼすエミリアに、グレーテルはぎょっと目を見開いた。
「え、姫様!? そんなに傷つきました? 申し訳ありません」
グレーテルはめずらしくあせった様子で、頬に流れる涙を優しく拭ってくれた。
エミリアは頭を振った。
「ごめんなさい」
「姫様?」
「あなたを守りたかったのに、あなたに守られてしまった。私は戦姫なのに、あなたを死なせてしまった!」
「姫様、怖い夢を見たのですね。ですが、私を勝手に死人にされては困りますね」
グレーテルが困った顔で微笑んで、すすり泣くエミリアを抱き寄せた。
このころ、母を病で失ったばかりのエミリアは精神が不安定になっていて、毎日のように悪夢に悩まされていた。そのため、グレーテルはいつもの悪夢だと勘違いしているようだった。
勘違いされたままでもいい。エミリアはグレーテルの柔らかい体にしがみついて声をあげて泣いた。
しばらくして落ち着くと、エミリアはそっとグレーテルから体を離した。八歳の姿だが、精神は十八歳のつもりなので、子供のように泣いてしまったことがすこし恥ずかしい。
「ありがとう、グレーテル」
「いえ……紅茶が冷めてしまいましたね。新しいものをいれてきます」
「そのままで大丈夫です。ありがとう」
エミリアはぬるくなった紅茶を口にして、ほっと息をついた。グレーテルの紅茶は二度と飲めないと思っていたので、感慨深いものがこみあげてくる。
「みっともない姿を見せてしまいましたね」
「それが年相応というものです。姫様は我慢しすぎですから、もっと甘えてください。このままだと私の仕事がなくなりますよ」
「うん、ありがとう」
昔から献身的で優しい人だと思っていたが、一度失ったことで、彼女の細やかな心遣いに気づいて感謝の気持ちでいっぱいになる。
「私はあなたの優しさに救われています。あなたがいたからここまで生きてこられた。ありがとう、グレーテル」
素直に思ったことを口にすれば、エミリアの髪にブラシを当てようとしていたグレーテルの手が止まった。
失敗しただろうか? とエミリアは不安を覚える。
グレーテルはエミリアの正面にまわりこむと、床に両膝をついてエミリアの小さな両手をとった。
「私にはもったいないお言葉でございます。姫様のためなら、私はなんだってできるのです」
グレーテルはエミリアを上目遣いに見て、エミリアの小さな手をきゅっとにぎった。つながった手から熱が伝わって、胸の奥がじわりと温かくなる。
ふたりはしばらく見つめあって、照れくさそうに笑った。
「そうだ、姫様。きょうのドレスはいかがいたしましょう」
空気を変えるように、グレーテルが明るく言った。エミリアは首を傾げる。
「ドレスですか? いつもの戦姫の正装でいいですよ」
「いけませんね、姫様。もうお忘れですか? きょうは長年敵対していたあのフェルゼン王国から、アシェル王子とキルシュブリューテ王女が来訪されるのですよ」
「なんですって!」
エミリアはティーカップをとりおとしそうになった。グレーテルはクローゼットを開きながら「きのうもお伝えしたじゃないですか」と自分の落ち度ではないと主張している。
エミリアはドクドクと激しくなる心臓を服越しに押さえた。
聖戦のきっかけとなったと語られる事件がある。それこそが「キルシュブリューテ王女の死」である。
敵対していた二国の親交を深めるために、王より先にエーデルシュタインに向かっていた王子と王女は何者かに襲撃され、王女が命を落とした。
襲撃者はエーデルシュタインが送りこんだ暗殺部隊なのか、フェルゼンの反王政派組織の仕業なのか解明されないまま、両国に深い溝が刻まれ、ついに国交が回復することはなかった。
「おふたりの馬車はいまどこに!」
「おや、めずらしく乗り気ですね。いまは国境を越えたあたりでしょうか。さすがの姫様もフェルゼンの美少年には目がありませんか。意外と面食いですね」
エミリアは城から国境までの距離を計算し、事件が発生した時刻を思い出していた。
馬を走らせたとしても、おそらく襲撃時に間に合わない。
にぎりしめた拳が震え、額に汗がにじむ。
このままでは王女が死んでしまう。
王女を死なせてしまえば、再びこの国は焼かれ、グレーテルを失い、アシェルと殺し合いをしなければならない。
「それを回避するために私はもどってきたのです」
フェルゼンに対する複雑な思いはあるが、聖戦を回避すれば、もう二度と大切なものを失わずにすむ。エミリアが命を奪う必要も、奪われる必要だってなくなるのだ。
新たな使命のために、エミリアは立ちあがった。
そのとき、エミリアの脳裏に白銀の毛並みをもつ気高き獣の姿がよぎった。
成功する可能性は著しく低いが、アシェルたちのもとへ向かうにはそれしか方法がない。
エミリアはグレーテルに気づかれないように背後を通りすぎる。
「きょうは気合いを入れて、王子をメロメロにしましょうね~」
椅子の背にかけてあった青いローブを手にとり、寝衣の上に羽織って部屋から飛び出した。




