婚約破棄
あれから十年が経った。いまだ聖戦の兆しはない。
しかし、エミリアは目の前の光景に、久方ぶりに心が冷えきっていた。
エミリアの婚約者であるヴェルメ王国のフォーゲル王子と、エーデルシュタイン王国第二王女でありカルロッタの娘のミラローズ・ジル・エーデルシュタインが、フォーゲルにあてがわれた部屋で親しげに寄り添っていた。
ふたりが座っているソファーはバルコニーの方向に向いているため、部屋に入ってきたエミリアに気づかずに甘くささやき合っている。
「ねぇ、ミラ。いつエミリアに種明かしをするの」
フォーゲル王子は、穏和という印象を与える整った顔立ちの青年である。フォーゲルが甘ったるく微笑むと、彼のくせのある栗色の髪にミラの白い指がからんだ。
その慣れた手つきに、これがはじめてではないと、エミリアでもわかった。
「もちろん、婚約披露パーティーに決まっているわ。そこで本当の婚約者はわたくしだって暴露しますの。何も知らないで浮かれているのはエミリア姉様だけよ」
エミリアの顔から血の気が引いた。
ミラはフォーゲルの肩に頭を乗せて、楽しそうにくすくすと笑った。ゆるくウェーブのかかった長い金髪に、誰もが目を奪われる美貌をもつ娘である。勝気そうな明るい緑色の瞳がきらきらと輝いていた。
フォーゲルがどこかほっとしたようにミラの頭をなでた。
「本当にエミリアと婚約させられるかと思ってひやひやしたよ。あんなよくわからない女、誰が妻にするものか」
「ふふ、ごめんなさい。お母様ったら本当におもしろいことを考えますでしょう?」
「そうだな。提案されたときはよくわからなかったけれど、緊張感があっておもしろかった。しかし、どうして王妃はそこまでエミリアを敵視するんだい?」
フォーゲルは何気なく疑問を口にしただけだが、腕の中のミラはむすっと眉根を寄せた。
「奇跡の女神の力を受け継いでいるからよ。それこそがエーデルシュタイン王家の証。とても貴い血なんですって。お母様は昔の人だから、いまでもその意識が強いのね。まあ、わたくしはお姉様のことが単純に気に入らないだけですけど!」
「ふうん? でも戦姫なんてもう時代遅れだろう。僕はきみと結婚できればそれでいいさ」
フォーゲルが顔を近づけると、ミラはうっとりと目を細めた。
エミリアはため息をつくと、わざと足音を立ててふたりに近づいた。
「フォーゲル様」
「え? エミリア!?」
フォーゲルはあわててミラから体を離した。
ミラは乱れた金髪を整えながら、にんまりと笑った。
「お、おかえりエミリア! えっと、いつからそこに? 国境警備はあしたまでって聞いたけど……」
「帰還予定が早まったのです。さあ、つづきをどうぞ。私はこれで失礼いたします」
「あ、待ってくれエミリア!」
淡々と用件だけを伝えて、エミリアは部屋をあとにした。なぜかエミリアを引き止めるフォーゲルの声が聞こえるが、すべて無視した。
エミリアにも矜持がある。弱さを見せず、堂々としていたかった。
エミリアが自分の部屋に前に立つと、グレーテルが扉を開いて「おかえりなさいませ」と笑顔で迎えてくれた。
十年経ってさらに大人っぽくなったグレーテルだが、幼少期から変わらず献身的にエミリアを支えてくれている。
エミリアはようやくほっと息をついた。
「あら、フォーゲル様に会いに行ったのでは?」
「じつは……」
エミリアは白を基調とした戦姫の衣装から、質素なワンピースに着替えながら、フォーゲルの不貞行為と、カルロッタによって仕組まれた縁談であったことを説明した。
最初こそにこにこと微笑んでいたグレーテルは、話し終わるころにはものすごい剣幕で叫んでいた。
「はぁぁ~? よくも私の姫様を弄んでくださいましたね? あのクズどもが!」
「私の代わりに怒ってくれてありがとう。でもそれくらいでいいですよ」
「あぁ、もう、腹が立つ! まさかこんな卑劣な手を使って姫様を貶めるとは!」
「最初は良い縁談だと思ったのですけど」
エミリアは疲れたように椅子に座って、窓の外を眺めた。
フォーゲルとの縁談を持ちこまれたときには、すでに決定事項となっていて、エミリアに拒否権はなかった。
いつのまにか婚約披露パーティーの日時も決められて、パーティーに招待する国まで手配済みという手際の良さに、エミリアも不審に思った。
カルロッタが何か企んでいるのかと考えたが、この国から追い出したいだけなのかもしれない、と納得した。
フォーゲルとはじめて顔を合わせたとき、とても穏やかに微笑む人だと思った。
魔術と槍術ばかり磨くエミリアを可愛げのない女と評する者が多いなかで、彼は「エミリアらしくて素敵だ」と笑った。
庭にある休憩用の建物で一緒に紅茶を飲んでいるとき、フォーゲルは言った。
「きみはもう戦姫でいる必要はないのだろう? きみの強さは魅力的だが、心配でもある。できれば僕のそばにいてほしいな」
「戦姫をやめるという決断は難しいかもしれません。でも、なるべくあなたのそばにいられるように努力はします」
「そうか、それが聞けただけでもうれしいよ。きみは照れた顔も可愛いね」
戦姫をやめてほしい、という願いにとまどったエミリアの反応を、フォーゲルは照れていると勘違いしてくれたらしい。
可愛い、などと異性に言われたのははじめてで、エミリアはどきりとしてしまう。
これが恋なのかもしれない。私はちゃんと新しい恋ができる。
エミリアは安堵した。
きっとこれでアシェルへの想いを忘れて、ちゃんとアシェルの結婚を祝福できる。
そうやって自身の結婚に前向きになった矢先に、すべて嘘だったことを知ってしまった。
しかし、不思議とフォーゲルに対して裏切られたという感情はなかった。フォーゲルへの未練がない時点で、彼に抱いた感情は恋などではなかったのだろう。
エミリアは、恋をした気になっていたことが恥ずかしくて、騙されていたことがとても惨めだった。
「そもそも女神の血を遺すために婿をとっていたのに、他国に嫁がせようとするなんておかしいと思いました。戦姫の力が他国に流れてしまうというのに」
グレーテルは愚痴をこぼしながらアップルティーを入れてくれた。
りんごの優しく甘い香りに心が安らいだ。
「お父様は『特に活躍していないのだから、もう戦姫など必要ないだろう』とおっしゃっていました」
「よくもまあ、そんなことが言えましたわね。誰のおかげで安全に暮らせていると思っているのでしょう。しかもエーデルシュタイン王家の正当な血筋であるはずのエミリア様をこのように扱って!」
「つまり、それほど世界は平和になったということですね」
「姫様は前向きにとらえすぎです!」
ぷりぷりと怒るグレーテルに微笑みかけながら、エミリアはほんのりと甘いアップルティーを口にした。
戦姫は不必要だと思われるくらいに世界は平和になったが、この十年間まったく争いがなかったわけではない。
大きな戦いこそなかったが、フェルゼン王国や周辺国との緊張状態がつづいていたのだ。
それでも血が流れなかったのは、フェルゼン王国のキルシュの活躍があったと言われている。
キルシュが称賛されるたびに、エミリアは自分のことのように誇らしく思った。
「お前の使命が、自分の首を絞める結果になるとはな」
エミリアのベッドで寝転がっていたシュトラールがあくびをしながら言った。
エミリアは背筋を伸ばして、
「お母様の代でも成し遂げられなかったことですよ。この上ない名誉でございます」
と言ってみたものの、本当は空虚を感じていた。
使命を失った私には何が残るのだろう……。
近頃はそういった不安が、すこしずつエミリアを追いつめる。
自分を見失いそうになったとき、エミリアは幼いころのアシェルの笑顔を思い出していた。
彼にだけは恥ずかしいところを見られたくない。対抗心にも似たその気持ちだけで、エミリアはもう一度胸を張って歩くことができた。
「アシェル様はカリーナリリー王女と一緒におられるのでしょうか」
エミリアは外を眺めながら何気なくつぶやいた。
グレーテルも同じように外に視線を向けながら、いまいち腑に落ちない様子で言った。
「フェルゼンとの交流を失って十年ですから、正しい情報が入ってきていない可能性もありますよ」
「というと?」
「十年前の話ですから、状況は変化しているかもしれません」
「そうですね」
エミリアは、十年前から現在に至るまでのアシェルの状況を正確に把握できていない。
両国の関係が悪化したことも原因のひとつだが、アシェルから一度も手紙が届かなかったのだ。
エミリアからも手紙を出したが、その返事すらなかったことに、さすがのエミリアも落ちこんだ。
婚約者であるカリーナリリー王女に配慮してのことなのか、単純に届かなかったのかはわからない。
エミリアは暗い思考を振り払うようにアップルティーを飲んだ。
「いつまでもくよくよしていられませんね。戦姫たるもの、心を強くもたねば」
「そうですよ。嫌なことはさっさと忘れて、きょうはゆっくりお休みください。そうだ、久しぶりにこのグレーテルとカードゲームでもやります?」
グレーテルがエプロンのポケットからカードの束をとり出して、にやりと笑った。
「姫様相手でも手加減はしませんが」
「いいですよ。私だって勝負事には手を抜きません!」
エミリアはグレーテルの気遣いに全力で乗ることにした。
翌日。エミリアは婚約破棄を告げられ、フォーゲルとミラが正式に婚約すると発表された。




