嫉妬と許し2
「エミリアマリー!」
亡霊が黒い靄をまとって、再びエミリアの前に出現した。
彼女は憤怒の形相をして、エミリアを激しく叱責する。
「私の使命は聖戦を回避することでしょう。だというのに、憎い男に心を奪われて、情けないと思わないのですか。アシェルに命を奪われた仲間を忘れたのですか? 私をかばってこの腕の中で息絶えたグレーテルの顔は? 彼らが最期にどんな思いで私の盾となったのか、もう忘れたのですか!」
「忘れるはずがありません。ですが、それはいまのアシェル様には関係のないこと! いまのアシェル様に罪はない!」
エミリアは自身の作り出した幻影を打ち消すように叫んだ。
しかし、亡霊はエミリアの視界から消えることはない。
亡霊に取り憑かれたエミリアの胸のうちには、アシェルに対しての複雑な感情が渦巻いている。
アシェルに救われた喜びや、彼を支えられる幸せ。
英雄に奪われた仲間の命。与えられた怒りと哀しみ。
激しい感情の海に揉まれるエミリアだったが、ただひとつ絶対に揺らがないものが存在する。
「私の使命は、聖戦を回避すること」
大切な人たちや、この世界を守るためには、アシェルを大切に思う気持ちは捨てなければならないのだろうか。
積み重ねてきた憎しみを、抱きつづけなければならないのだろうか。
迷いの深みにはまるエミリアを見かねてか、シュトラールが助け船を出した。
「まずお前は、お前自身の心を許してやるといい」
「許す?」
エミリアは思わず、すがるようにシュトラールを見上げていた。
「そのまえに聞きたいことがある。その口振りからして、お前には未来の記憶があるのだろう」
言ってもいいものなのだろうかとエミリアが迷っていると、シュトラールは「女神は口止めをしなかっただろう」と言った。エミリアは素直にうなずいた。
「はい。私には十年後の未来の記憶があります」
「ここにもどってきたのは、お前が女神に願った結果か?」
「いえ、女神様が私に聖戦を回避せよと新たな使命を与えてくださったのです」
「女神から? それは本当か」
シュトラールは怪訝そうに、またエミリアの嘘を見抜くようにじっと見すえた。
エミリアにはシュトラールの思考が読めなかったが、知っていることすべてを話そうと決めた。
「はい。十年後の未来は、世界を巻きこんだ聖戦の終局を迎えていました。世界の命運を決める最後の勝負で私はアシェル様に敗北し、死んだ直後にはじめて女神様とお会いしました。私が死んでしばらくして世界は終焉を迎えたそうです。その未来を変えるために、女神様は私の意識を十年前に送ったのです」
「ふむ……うん、そうか。とりあえず、お前の言っていた聖戦回避の意味がわかった」
シュトラールは納得したようにうなずいた。エミリアの発言に嘘はないと信じてくれたようだ。
エミリアはシュトラールに説明しながらも、自分が死んだあとの世界を一度も考えたことがなかったことに気がついた。
「私がいなくなったあとも世界はすこしだけつづいていた。終焉を迎える世界で、アシェル様は幸せだったでしょうか」
その問いに答えられるのは奇跡の女神くらいしかいない。
最期が迫ったとき、アシェルは愛しい人のそばにいられたのだろうか。
シュトラールは、こちらを見て莞爾と微笑む奇跡の女神を見上げて言った。
「さあな。だが、そうやって英雄を想うお前の心は素直で心地良い」
エミリアは不安げに眉を曇らせた。背後に亡霊の禍々しい気配を感じる。
「よろしいのでしょうか……私がアシェル様を愛してしまっても」
「お前が許せなくても、私が許す。そして祈ろう。国の盾となり散った女神の子、エミリアマリーの心が安らかであるように」
エミリアは目を見張った。シュトラールの黄金色の瞳が穏やかに細められる。
「あれ?」
エミリアは不思議そうに、目からこぼれ落ちる涙に触れた。
袖で強引に目元を拭ったが、涙が止まらない。
「どうして? なぜ私は泣いているのでしょう? だって、私には泣く権利などありません。たくさんの命をこの手で奪ってきました。そして仲間を、国を、グレーテルを守ることさえできなかったのに!」
シュトラールは慰めるように、すすり泣くエミリアの頬に鼻先を近づけた。
「ここにいるのは私だけだ。お前を裁く者などいない。お前の涙を誰も責めはしない。女神の子よ、よく戦った。もう誰も憎まなくていい。自分の心に素直になっていい」
エミリアはとうとう堪えきれなくなって、絨毯の上に泣き崩れた。
戦いの果てに命を落とした戦姫、エミリアマリーの魂が泣いている。
まぶたを閉じた向こうに、ぼろぼろに傷つき泣き叫ぶ戦姫の亡霊の姿を見た。
エミリアは心の中で、その亡霊をそっと抱き寄せて「こんなになるまで、よく戦ったね」と優しく声をかける。
「ねぇ、過去の私。アシェル様の幸せを願うことは、どうか許してください。はじめて恋を教えてくれた、大切な人だから」
涙の懇願を、かつての亡霊が責めることはなかった。




