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世界で一番憎い男

よろしくお願いします。


 この世でもっとも憎い男が立っている。


 貴公子然とした美しく若い男だ。しかし、彼に貴族の若者のような優雅さや華やかさは微塵も感じない。特徴的な赤い瞳は飢えた野獣のように血への渇望に満ちていて、艶やかな黒髪から滴る血がその美貌を赤く濡らしていた。

 男の前に両膝をついて、うなだれている女がいる。純白のドレスのような装束に身を包んだ女の手には、ユニコーンの角のごとく鋭い神槍がにぎられていた。星の輝きを宿した白銀の髪をひとつにまとめた女は、絶世の美女とも言うべき高貴な容姿をしているが、その澄んだ青い瞳は誰にも屈服しないと言わんばかりの獰猛な輝きを宿している。

 男が、失望にも似たまなざしで女を見下ろした。


「終わりだな。エミリアマリー・エル・エーデルシュタイン」


 女は燃えあがる怒りにまかせて立ちあがろうとしたが、左胸を貫いている神剣が邪魔をして身動きがとれなかった。

 エミリアと呼ばれた女は、噛みつくような勢いで言った。


「まだ終わっていないぞ、アシェル・フェルゼン!」


 叫んだ勢いで喉の奥から血が逆流し、エミリアの膝を赤く濡らした。

 瀕死のエミリアを、アシェルと呼ばれた男は何の感慨もなく見下ろしている。

 やがて、満足に呼吸もできなくなったエミリアの体が前のめりに傾いた。左胸に突き刺さっていた神剣が、カランと乾いた音を立てて抜け落ちる。

 地面に崩れ落ちるエミリアを、硬い何かが支えた。

 靄のかかった視界の先に、アシェルのたくましい肩が見える。

 脱力した体は、アシェルに抱き寄せられるようにして支えられていた。


「エミリアマリー」


 低い声が噛みしめるように名前を呼んだ。

 思えば「虐殺の女王」ではなく、名前で呼ばれたのはずいぶんと久しぶりだ。

 背中に回された腕の硬さと間近に感じる息遣いに、いまにも動きを止めそうな心臓が強く脈打つ。

 フェルゼン王国とエーデルシュタイン王国の二国を中心として世界を巻きこんだ大規模な聖戦は、エミリアの死によって終結するのだろう。

 ベッドの上で死ねるとは思わなかったが、自分にも死が訪れたことに、忘れかけていた感情が胸の奥に去来する。エミリアはすがるように男の胸元をにぎった。


「アシェル」


 苦しげな呼吸音とともにこぼれ落ちたのは、怒りでも恨み言でもなく、宿敵である男の名前。

 かすれた声がアシェルに届いたのか、背中に回された腕に力がこめられた。

 エミリアの意識は、ゆっくりと光の届かない深海に沈みこんでいく。

 そして、アシェルの腕の中で、エミリアはその短い生涯を終えた。




「目覚めよ、戦姫」


 子を慈しむ母のような穏やかな声がひびいた。

 エミリアはまぶたを開いて、ゆっくりと上体を起こした。

 両手をついた地面は氷のように透きとおり、瑠璃色の空には色とりどりの星が輝いていた。氷の大地と星空の境界線は青白く輝いている。とても現実の景色とは思えない場所だ。エミリアはゆっくりと立ち上がった。


「ここはいったい……私は死んだのでは?」


 左胸の傷はなく、全身の切り傷も消えている。すると、背後に何者かの気配を感じた。


「ここは生と死の狭間の世界」


 エミリアが振り返ると、そこには長い白銀の髪を揺らした美しい女性が宙に浮いていた。

 神秘的という言葉が似合うその女性は、凪いだ海のような青い瞳で静かにエミリアを見下ろしている。

 同じ髪色と瞳の色をしているエミリアは、彼女の正体に思い至った。


「まさかあなたは、奇跡の女神?」


 奇跡の女神と呼ばれた女性は、肯定も否定もせず目を細めた。

 奇跡の女神とは、魔術の源とされるフランメを生み出した存在である。

 フランメは生物の体内や空気中に存在するため、誰でも魔術を使用することができる。なかでも強力な魔術を使える者は王と名乗り、それぞれの王のもとに国ができた。

 世界をつくった彼女は、はじまりの女神とも呼ばれている。エミリアの一族は、とある理由から彼女の姿と同じ特徴を受け継いでいるのだ。

 伝説の女神が実在したことに衝撃を受けたエミリアは、粛然とした気分になりながらたずねた。


「女神様、なぜ私はここにいるのでしょうか」

「持てる者がその責を果たさないのは傲慢である。だからあなたはここにいる」

「傲慢?」


 微笑みながら残酷な言葉を告げる女神に、エミリアは目を見張った。


「わ、私は、エーデルシュタイン王国の第一王女として生まれました。人並み外れたフランメを持ち、魔術の才能に恵まれたため、ただのお姫様でいることは許されなかった。エーデルシュタインの戦姫として戦い、血を浴び、血を流しつづけてきました」


 エミリアは声を震わせた。


「女神様。私を傲慢とおっしゃるのはなぜなのですか?」


 微笑む女神の姿が揺らぎ、頬が濡れる感触がした。


「誰かの家族の命を奪い、大切な友の命を奪われ、そして私自身も命を落とした。これ以上、私に何を捧げろというのですか」


 いままで抑えてきた感情が爆発して、涙が止まらない。

 エミリアの悲しみをぶつけられても、女神は眉ひとつ動かさずに微笑んでいる。女神である彼女は人の感情を理解できないのかもしれない。

 女神は子を宥める母のように困った顔で微笑んだ。


「エミリアマリー。あなたは私から力を与えられた特別な一族の末裔です。そしてあなたの先祖は自国だけではなく世界の秩序を守るという約束をした。ご存じですよね」

「はい……戦姫の名を継ぐ者の使命です」


 エミリアはうつむいて、唇をかんだ。聖戦を止められなかったエミリアは、使命を果たすことができなかったのだ。


「あなたが死に、フェルゼン王国が勝利した世界はすぐに終焉を迎えました。聖戦の傷痕はあまりにも大きすぎた。フランメは枯渇し、大地は荒れ果て、生命は息絶えた」


 エミリアの前には崩壊したエーデルシュタイン王国が広がっていた。

 国の象徴である美しき白亜の城は焼け落ち、炎の波にのまれた城下町は灰となり、荒涼たる大地が広がっていた。川は枯れ、人の声も、空を飛ぶ鳥の声も聞こえない。

 静寂と、生命を焼いた臭いだけがそこにある。

 エミリアは色を失い、全身が恐怖に震えた。聖戦に敗北する意味は理解しているつもりだった。しかし、実際の景色を見せつけられるまで、それが自分の勝手な想像であったことを思い知らされたのである。


「あなたにもう一度使命を与えましょう」


 女神の声にはっと我に返ると、エミリアは再び幻想的な星空の世界にもどっていた。

 絶望感と罪悪感に苛まれた心が、すこしだけ息を吹き返す。


「あなたの使命は聖戦を回避すること。そのために、あなたの意識をいまから十年前に送ります」

「十年前に?」


 何もかも破壊されるまえの世界にもどれる。

 突如与えられた希望に、エミリアの視界が明るさをとりもどした。

 女神はうなずくと、天を仰いだ。その視線の先をたどると、星々が輝いていた空が炎に焼き尽くされ、そこに深紅のマントをひるがえすアシェルの後ろ姿が映し出された。

 エミリアは息をのんだ。


「フェルゼンの英雄……」

「聖戦回避のためにフェルゼンの英雄と呼ばれたアシェル王子と信頼関係を築きなさい」

「英雄と、信頼を……」


 エミリアの心に複雑な波が立ちさわぐ。

 聖戦回避のためには必要なことだと理解していても、いますぐ納得するのは難しかった。

 女神は労わるようなまなざしでエミリアを見つめた。


「仲間や国を奪われ、あなた自身も命を落としたばかりですから、すぐに気持ちを切り替えるのは難しいでしょう。ですが、彼に抱く感情は憎しみだけでしたか?」


 エミリアは反射的に反論しようとして、言葉につまった。

 口が裂けても言えなかったが、エミリアはアシェルの心の強さや、誇り高い英雄の姿にあこがれていたのだ。

 それを誰にも気取られないようにと、必死に心の奥底に封印してきたというのに、女神には見抜かれていたようだ。


「再び英雄との対決を望みますか? 彼に復讐がしたいですか?」

「いいえ……望みません。向こうはどうか、わかりませんが」

「彼もきっと同じことを考えますよ。あなたたちはよく似ている」


 本当にそうだろうか。疑うエミリアを慰めるように女神の指が頬をなでる。エミリアはおどろいたように顔をあげた。

 女神は、まるで我が子を案じる母のような顔をしていた。

 体温は感じなかったが、不思議と安心感を覚えた。


「戦姫よ。その称号はいまのお前には不相応です。偽らない魂にのみ、女神の力は応えるでしょう」


 素直になりなさい。女神が微笑んで言った。

 すると、エミリアの全身から力が抜けて、抗えぬほどの眠気に襲われた。


「ちょっと助言しすぎたかしら。制約とは面倒ですね」


 では、行ってらっしゃい。女神の穏やかな声に見送られて、エミリアは目を閉じた。

 死と眠りは似ていることに気がついて、すこしだけ怖かった。


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