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お偉い辺境伯家令息は、鼻息荒く胸を反らしてふんぞり返るのがお得意

作者: 空原海

「どうします?」


 少年は半歩後ろに佇む少女に物憂げに問いかけた。

 オールバックにぴしっと決まった前髪に手を遣ると、わずかにほつれている毛が指先に触れた。心の内で小さく舌打ちして、器用に毛の先を押し込める。


「ハロルド様こそ」


 少年の長く優雅な指がいつも通り、いささか芝居がかったように貴族的な調子で振る舞い、前髪を整えるという仕事を満足に終えるのを眺めながら、少女は抑揚のない口振りで答えた。

 少年はくっと短く笑った。まったくバカらしい。二人は互いに相手に対してなんの必要性も感じていないこと、それどころか少しばかりの嫌悪さえ抱いていることを知っている。どれほど小さな取り繕いも要らない。


「追いかけてくればいいじゃない?ほら、まだあんなに近くにいる」


 少女が細く白い、短い指で青い空を指した。

 大きく白い雲が濃い群青色の空にぽっかりと浮かび、同じくぽっかりと豊かな黒髪を風にたなびかせる少女が浮かんでいた。

 晴れ渡った空に不釣り合いの落雹に、少年は不機嫌そうに顔をしかめた。そして白い砂浜を走り回る猿のような少年を指さした。


「ええ。リナさんこそ、追いかけてきたらどうです?あなたが抱きつけば、血に飢えた狼のように女性を口説き回る徒労に貴重な青春を費やしているあのバカは…」

「やめて」


 少女は少し瞳を揺らして、強い口調で少年を遮った。

 少年はその台詞にようやく少女を振り返った。少年の顔には勝ち誇った優越感の表情がありありと浮かんでいた。少女は下唇を噛んだ。


「つまりはそうやって、ごく自然にナタリーの気を自分に向けたいんでしょ。私がジャックを追いかければ…」

「リナさんが先に言い出したことでしょう」


 少年は意地悪く笑った。

 大粒の雹から逃げ惑ってはボロボロの態を見せる猿は実際、少女が大きな瞳を潤ませ可愛らしく甘えた声でしなをつくれば、すぐさま少女に襲いかかるだろう。そしてすぐさま離れるのだ。

 少女はキッと少年を睨め上げた。


「いいえ。ハロルド様からよ」


 少年はいかにも心外だ、と目を見開いた。追いかけろなどという屈辱的な提案をしたのは少女のはずだ。

 少女は苛々とした様子を抑え込んで静かな口振りで言った。


「あなたが先に、口を開いたんだわ」


 少年は小さく唸った。

 そうだ。お互いによくわかっている。少年と少女が二人きりに残された状態で口を開けば、結局会話の帰するところは常に同じだ。


「それは」


 悪かったですね、と皮肉な視線で投げやりに言い捨てると、少女が忍び笑いを漏らした。


「今度ジャックに謝り方を教わったらいかが?」


 少年はむっつりと少女を見た。少女は小さく薄い身体を丸めておかしそうにクスクス笑っている。身体が揺れるたびに、真っ直ぐで固そうな黒髪も豊かに揺れる。

 少女の胸は、この年頃の女性としては薄すぎるし、細いウェストはくびれというより栄養失調の子供のようだ。

 白い砂浜を所狭しと駆け回る猿に雹を雨霰と落としている、ナタリーの魅惑的なふとももを口元を緩めて眺めたあと、ちらりと棒きれのような足を見やった。女性らしい丸みはそこにはない。少年は在るか無きかの微かな同情と盛大な軽蔑を瞳に込めた。

 少女はその視線の意味に気づき、顔を赤く染めると、辛辣に言い放った。


「お偉いキャンベル家のおぼっちゃまは、鼻息荒く胸を反らしてふんぞり返るのがお得意ですものね!」


 少年はそれのどこが悪い、と気にもかけない様子で「ええ、その通りです」と答えた。少年の視線の先には、キラキラと光を跳ね返す不思議な塩梅の黒髪が青い空に弧を描いていた。


 少女は少し眉をひそめると嘆息し、寂しそうな瞳で少年を見た。少年は少女を振り返らず関心のないように振る舞っていたが、左の頬に感じる少女の視線に苛立ちを感じた。そこには心の底からの、純粋な憐れみがあるようだった。自分が誇りに思っている信念と振る舞いに、度々少女がそのような視線を向けることに、少年は我慢ならなかった。

 少年は遂にうめき声を漏らした。


「お優しい元庶民のリナさんが、誰彼構わず同情して理解を示そうとするのがお得意なようにね」


 少女を振り返ると、少女は大きな瞳をこれ以上ないほどに見開いていた。理性的なオニキスのようにキラキラとした瞳は今やこぼれ落ちんばかりで、少年の嗜虐心を誘った。とろけるほど暑い太陽の下、少女の顔は完全に血の気を失い蒼白だった。

 少年はうめき声を改め、強く傲慢な自信を苦労して抑え込み、穏やかで極上の微笑みを少女に向けた。


「リナさんは本当にお優しい、素敵な女性だ」


 ジャックのやつも、そんな素晴らしく心根の優しい幼馴染みの涙が何より心を動かすようですね。

 少年の頬は緩み、端正な顔の夢のような微笑みはますます魅惑的になる。


「ハロルド様、あなたっていう人は…!」


 少女はきつく両手を握りしめ、シャーベットピンクの塗られた爪が手の甲にくいこんで震えていた。青白い顔の中、そこだけ不自然に赤い唇がわななく。


「お得意の誘惑法でしょう。ああでもぼくに仕掛けるのは賢明ではありませんよ。ぼくはジャックほど愚かではありませんし、きみの魅力はぼくを愚かにするには少しばかり足りないようだ」


 リナは青く震えていた顔にさっとシャッターを下ろすと、冷たく目を細めた。


「いいえ。あなたほど愚かな人は見たことがないわ」


 少年は品性に欠けることを自覚しながら鼻で笑った。

 少女の侮蔑は、人形のように冷たい表情の割りに負け惜しみの度合いが濃く滲みすぎていて、あまり気の利いた切り返しとはいえない、と少年は心地よい優越感に浸った。


 少女は一度下ろしたシャッターをあげて瞳を揺らしたかと思うと、僅かな溜息を漏らし、くるりと背を向けて盛り場から遠く離れ人影もない小さな小屋へと向かっていった。小屋は、リナにナタリー、ジャックと同じ孤児院出身の娘が営む寂れた宿屋だ。

 宿屋を営む娘は腕っぷしが強く、並大抵の男には負けなかったが、客に舐められないように、要らぬ諍いが起きぬようにと男装をしていて、リナはその男装の娘と誰より仲がいい。

 ハロルドは、リナが男に相手にされぬからと男装の麗人とお慰みの擬似恋愛でもするつもりだろうと思い、リナがますますみじめったらしい貧相な小娘に見えた。

 ハロルドが満足げに口の端を歪めると、少し前からちらちらと視線を投げかけてきていた、頭の軽そうな少女二人連れが声を掛けてきた。ハロルドは白い歯を胡散臭いほど爽やかに光らせて微笑み返した。少女達が黄色い悲鳴を上げた。

 連日の海通いによる日焼けでボロボロの肌と、薬品で金に染めたパサパサの乾ききった髪。顔のつくりは塗り込められた化粧でもはや判別がつかない。気味の悪いほど同じような面構えの少女達の手にひかれて、ハロルドは浅瀬に入っていった。






 あまりの退屈さにハロルドは欠伸を噛み殺した。

 海水で化粧が剥がれドロドロになった少女達の顔は見るに耐えなかったし、青い空にのんびりと浮かんでいる素晴らしいプロポーションを誇るナタリーは、少年に一度たりとも注意を向けようとはしなかった。ハロルドのことなど、ナタリーは頭の片隅にもないに違いない。

 ナタリーの頭を占めているはずの猿は、ハロルドがひどく嘲ったリナの後ろ姿を追いかけ走り寄り、二人で寄り添うようにさびれた宿屋へ入っていった。先程まで美しい白い砂浜に無惨な落雹の痕を刻み付けていたナタリーは、ほんの一瞬気色ばんで猿を追う素振りを見せたが、それまでだった。ハロルドにはまったく理解できなかった。

 ナタリーはいつでもジャックを追いかけては、ジャックに落雹を浴びせている。なぜならナタリーの愛するジャックは、女の尻を追いかけまわしてばかりいるからだ。ナタリーは近年では使える者の少なくなった魔法を、ジャックを痛めつけることにだけ操っている。


 キャンベル辺境伯の次男であるハロルドは、魔法の使い手であるナタリーを領地の孤児院で偶然見つけ、それ以来領属の部隊に所属するよう勧誘していた。

 数十年前には魔法を操る者はさほど珍しくもなく、国だけでなく大貴族であれば、それぞれ各家ごとに魔法騎士団を抱える程であったという。しかし今となれば、魔法騎士団など王侯貴族の手中に収められるような、統制のとれた団体どころか、最早個人も存在しない。

 魔法を操る者、魔術を嗜む者。

 双方ともに自由気ままな者が多く、興味のあることにのみ打ち込み、研究に邁進し、我が道のみを進む。王侯貴族の指図を受ける者など、ほとんどいない。

 そんな珍しい魔法の使い手であるナタリーをハロルドが見つけられたのは、本当にただの偶然だった。

 ハロルドは次男だ。

 ハロルドの父親であるキャンベル辺境伯は、他の爵位を持っていない。従ってハロルドは貴族籍はあるものの、爵位を継ぐことはできない。娘しかいない、どこかの爵位持ちの家に婿入りするか、叙爵されるほどの功績を上げるか、はたまた兄である長男を蹴落とすしかない。

 ハロルドは爵位を授かる幸運に恵まれぬ次男として、指を銜えて眺めているだけの人生で終わるつもりはなかった。

 だからナタリーを見つけた幸運に、ハロルドは歓喜した。

 珍しい魔法の使い手。そのうえ、大層美しい。

 天の神がハロルドに与えた幸運の女神がナタリーであるとハロルドは確信した。故に共に来るよう誘いをかけた。


 ナタリーはジャックさえ共にいられるのならば、どこへでも行くという。熱中するような研究もないし、信念もなく、軍属だろうが傭兵だろうが、兵となることに否やはないと。

 しかしジャックは気軽に女遊びもできない、堅苦しくむさ苦しい軍部になど行きたくないと言う。ジャックが行かないのならば、ナタリーも行く気はないと言う。


 ハロルドは領主の息子として、ナタリーに命じることも出来たが、命じたところでナタリーの驚異的な身体能力(ナタリーは空まで飛べた!)をもってすれば、容易に抜け出されてしまう。何よりナタリーに惹かれているハロルドは、ナタリーに無理強いしたくはなかった。ナタリーが自然にハロルドを慕い、ハロルドの妾になることを望んで欲しかった。ハロルドにとって、ナタリーは戦力である以前に、囲うべき女だと思うようになっていた。

 次男とはいえ、辺境伯令息のハロルドにとって、身元の怪しい孤児院出身のナタリーは正妻にできる娘ではないし、そもそも娶ろうとも思っていない。ただ、ハロルドの気の向いたときに相手をして癒してくれればいい。

 妾として囲うからには、勿論報酬も与えるし、珍しい魔法の使い手としてキャンベル領に所属するとなれば、仕事の選べぬ孤児院出身者のナタリーにとって、破格の処遇だろうとハロルドは信じている。

 それなのに、ナタリーはハロルドの誘いをあろうことか鼻で笑い、足蹴にした。そしてハロルドに見向きもせず、ひたすらにジャックを追いかける。そのジャックは誰を決めることもなく、女と見れば見境いなく追いかける。それをナタリーは許さず、悋気の雹を落とす。その繰り返し。


 それにも関わらず、リナを追うジャックにナタリーは雹を落とさなかった。リナとジャックは、ナタリーが孤児院に身を寄せる前まで、恋人同士であったことをナタリーも知っているはずなのに。

 ハロルドには、まったく理解できなかった。

 そのせいだろう。ハロルドはナタリーに声をかけそびれてしまった。ナタリーが猿に嫉妬して追いかける、という行為をやめたことほど、ハロルドにとって都合のいいことはなかったのにも関わらず、ハロルドはナタリーがなぜ猿を追わなかったのかというどうでもいい事柄をどうでもいい事柄として処理するタイミングを逃した。


「きみたち」


 ハロルドは努めて紳士的な態度を装って、波と戯れる少女達に柔らかな声色で声をかけた。

 少女達は何を勘違いしたのか、楽しそうにキャッキャッとハロルドに両手で掬いあげた海水をかけてくる。塩辛い海水がハロルドの舌の上に広がり、ハロルドは強い不快感と憎悪を胸の奥底でくすぶらせた。

 この醜い下賤な猿どもが。いや、黒豚か?そのまま海に流されてしまえばいいものを。


「やあだっ!ハロルド様ったら、ちゃんと避けなくっちゃ!」


 少女達が耳障りなかん高い声で笑う。

 ハロルドは好青年らしい百パーセントの笑顔を浮かべてふるふると頭を振った。すさみかかっている思考を、さすがにマズイ、と振り払うために。

 いくらハロルドがフェミニストという仮面を被った、いや女性蔑視であるからこそのフェミニストという立場を自身よく理解しているとはいえ、言葉が過ぎる。彼女たちは気の毒なことに、元来男よりオツムの足りない女である上さらに、そのオツムの足りない女の平均にも遙か届かないのだ。そのことはナタリーや、先程ハロルドと相対していた少女、リナと比ぶれば、歴然としている。実のところ比べるまでもない。

 気の毒な少女達には同情を施してやるべきであって、無知の罪を糾弾していたぶるなど趣味が悪い。キャンベル辺境伯家令息たるもの、寛容であらねばなるまい。


「とても残念なんですが、そろそろ帰らなくてはいけないんです」


 同時に上がる不満の声を少年は珍しく、心地よく感じることができなかった。


「すみません。友人を探さなければ」


 ハロルドの言葉に、一人の少女が片眉をあげて嘲るように笑った。ハロルドは浮かべっぱなしの笑顔が引きつらないように、両頬に力を込めた。


「友人って、あの女、あたしたちが来る前に一緒にいた、あの?」

「ええ」


 どうやら目の前の少女が嘲っているのは自分ではなく“友人”であるらしいと悟ったハロルドは、胃の底でくすぶり始めた不穏な炎にあっさりと水をかけた。


「あら、そう。なんていうか、ハロルド様ったら。お気の毒ね」


 くすくすの忍び笑いをし始めた少女に代わって、もう一人の少女がぷっと噴き出した。少女の前髪を濡らしていた海水と唾が一緒になって空気に舞うのを見て、ハロルドは顔をしかめた。醜いものは嫌いだ。


「なぜです?」


 ハロルドは少女達が“友人”を嘲る理由を朧気に知りながらも、少女達に問いただした。なぜ自分がそんなことを聞くのかハロルドは疑問に感じたが、深く考えることはやめた。おそらく会話の流れによるのと、試験問題を解いたあとに答えがあっているのか知りたがるのと同じことだろう。


「だって、ねえ?」


 噴き出した少女がいやらしく、もう一人の少女に上目遣いで合図を送る。


「あんなダサい子!」


 そう言うと、シャワーのように唾をそこら中に吹き散らして少女達は大笑いした。


「あんなに短い、男の子みたいな頭しちゃって!」

「それに洗濯板じゃ、せっかくの水着が可哀想だったわ!」

「まだ6、7歳の子供じゃないわよね?あの子!あの体型ったら!それとも本当は男の子?」


 少女達が嬉々として悪口を叩くのを、ハロルドは薄ら笑いを浮かべて眺めた。

 これだから女はバカなのだ。自らの品位を落とすことにこれほどまでに必死に夢中になるなど、そしてそれが自分の利になると考えているのだから救いようがない。この女たちは確かに平民だが、裕福な商家の娘達であったはずだ。来年にはデビュタントも控えているに違いない。


「そうですね。もしかしたら男かもしれません」


 少女達は意地悪な笑顔を顔にはりつけたまま、嬉しそうにハロルドを振り返った。ハロルドは冷ややかな笑いを口元に浮かべていた。


「友人はあなた方、女どものように低俗ではありませんから」


 ハロルドはニッコリと微笑みかけ、少女達はその極上の笑顔に一瞬我を失ってうっとりと見とれた。ほんの一瞬ではあったが、ハロルドはその一瞬を大いに嘲った。非常に気分が良かった。






 ハロルドはしかし、不機嫌だった。背中に脳の足りない少女達からの罵詈雑言を受けながら、そのような状況に自らを追いやった己の思考回路が全く理解できないことにも苛立ちを募らせた。

 これがもし、ハロルドが恋い焦がれるナタリーのことであったら、ハロルドも少しは自分の振るまいに渋々ながらも納得することができたかもしれない。しかしそのときですら、ハロルドは自分がもう少し穏やかで婉曲な表現を、つまり愚鈍な少女達が皮肉とも気付かないソレでスマートに応対していただろうということも知っていた。

 ハロルドは子供じみた、それも理由のわかならい己の振る舞いに不愉快になるのを止めようとはせず、その苛立ちは憎しみにも似て“友人”の少女に向かっていった。だいたい、少年の甘いマスクに騙され続けてくれなかったこと自体も気に入らないのだ。

 女は愚かではあるが、愚かだからこそ可愛いと思う。賢い女などまったく可愛くもなければ、憎々しいばかりだ。


「よお、最低男」


 ハロルドは身体に染みついた反射反応として剣を抜いた。

 気むずかしげに端正な眉をひそめる少年と、それに対する猿のように身軽な少年。白い光を浴びて光る名刀に、猿は拾い物の、剣先の潰れたボロボロの模造刀でもって応戦していた。


「なんだ」

「いや、なんとなくな」


 飄々と答える猿は、いつもどおり飄々としていて、ハロルドはそれがいつも通り気に入らない。大体なぜ猿は模造刀など手にしているのだろうか。

 己がよく無意味に抜刀しがちであることを棚に上げ、ハロルドはふん、と鼻を鳴らして刀を鞘にしまう。


「しかし、なぜぼくが最低男なんだ。それは貴様のほうだろう。ナタリーさんをずっと放っておいて」


 ハロルドが後ろを振り返り空を仰ぐと、にこにことあどけない笑顔で空に浮かぶ少女、ナタリーがいた。ハロルドは思わず口元を緩めた。ナタリーの笑顔はいつでもハロルドの表情筋をだらしなくさせる。

 ジャックは鼻の下を伸ばしマヌケ面をさらすハロルドを冷ややかに見た。


「言っておくがな、ハロルド。お前が来なければ、おれはリナと今でもうまくいってたんだ」


 ナタリーの魅力的な笑顔から目をそらして不細工な猿に振り返るなど、苦痛この上ないことだったが、ハロルドは己に苦を強いて、伸ばした鼻の下を縮め、端正な顔をシリアスに額の皺険しく刻み込んで猿を睨んだ。

 ジャックが言っていることは、あまりに馬鹿馬鹿しかった。そして喉から手が出るほどナタリーを欲しているハロルドにとって、あまりに腹立たしかった。加えて、この猿と長年幼馴染みとしてつき合ってきた“友人”も同様、この猿の台詞を聞けば、激しく憤るだろうとハロルドは思った。

 いや、憤るのは彼女の気丈な部分だけで、一人きりになれば彼女の心はありとあらゆるところから血を噴き出して、恐ろしい惨劇を呈するだろう。


「なにが言いたい、貴様」


 ハロルドは低い声ですごんだ。この猿のどこがいいのか、ナタリーも“友人”も、まったく悪趣味だとしか思えなかった。

 猿は少年の鋭い眼光に怯えることなく、少年の陰湿さにも勝るほどに強い憎しみをもって睨み返した。


「貴様が大マヌケで、勘違い野郎だと言っている」


 少年は猿の台詞の不条理さに我を忘れるほどの怒りと憎しみを抱き、由緒正しい刀による懲罰ではなく、野蛮にも素手で殴りかかった。

 ジャックがヒラリとそれをかわすと、ハロルドは惨めにも白い砂浜に勢い余ってつっぷした。ハロルドは瞼や頬、胸に手足に灼けつく熱さを感じた。もはやハロルドの頭には、無礼な猿の顎の骨を拳で叩き割ってやること以外なかった。

 身体についた白い砂を払うことなくハロルドは立ち上がると、殺意に満ちた目で猿を睨んだ。猿は目を丸くして驚いた顔をしていた。場違いなほどにひょうきんで平和な表情に、ハロルドの憎しみはますます募った。頭上で愛らしいナタリーの、懇願するような声が微かに聞こえた。

 ジャックは大きく後ろに飛び退くと、素早くナタリーに視線を送り、小さく頷いてみせた。

 心配するな、ということか。ああそれとも邪魔をするな?

 ハロルドはギリっと奥歯を噛んだ。ハロルドの頭に不快な猿の声が聞こえた気がした。幻聴はハロルドの憎しみに拍車をかけた。


「ジャック…!貴様ほど殺してやりたい男に会ったことはない!」


 地に響く唸り声でギラギラと睨みつけるハロルドに、ジャックは目を細めた。


「ほう、奇遇だな。おれもそう思っていたところだ」


 猿が言い終えるか否かのうちに、ハロルドは力強い拳を猿の顎下に向かって突き上げた。

 あまりの怒りで目から炎があがっているような気がした。身体を怒りのままに投げ出そうとも込み上げて留まることの知らぬ憎悪を、ハロルドは双眸に集中して感じていた。幾千の針に刺される痛みと炎の熱さ。それが涙だと気付いたが、ハロルドは恥じ入る必要はないと思った。


「ハロルド!おれが言えることではないから言えんが、しかしおれが言わんと大馬鹿野郎は大馬鹿野郎のままではないか!」


 ハロルドは猿の気が狂った、と思った。

 ジャックはハロルドを見るとき、その瞳に憎悪を宿らせながらも、悲しそうに困惑して頭を抱えていた。ハロルドを殴ればどれほど気分がいいだろうすっきりするだろう、と言いたげに握りしめられた拳は、何度もハロルドの方に向かおうとしたが、猿はぴょんぴょんと逃げるばかりだった。


「卑怯だぞジャック! 貴様は逃げるしか能がないのか!」

「うるさい! 誰のせいでこうなってると思ってるんだ!」

「貴様のせいに決まっているだろうっ! 貴様がっ!」


 ハロルドの怒りはすさまじく、ハロルド自身ですら込み上げる激情が怒りなのかなんなのか、もはやわからなくなっていた。力一杯無駄な動きでぶんぶんと腕を振り回し、空を切ってはよろけ、立ち上がっては無様な格好でジャックへと向かっていく。

 カラカラに乾いた口から干上がっていなかった唾を飛ばして、ハロルドは自分の口がなにを言っているのか、言おうとしているのか、知ることのないまま怒鳴り散らした。


「リナさんの思いを否定するからだ! 踏みにじるだけでは足りんというのかっ!」


 ハロルドはジャリジャリと砂を噛みながら吼えた。猿が後ろに飛び退きながら、指をパチンと鳴らした。焦点の合わないハロルドの目では、それは錯覚か思い込みだったのかもしれないが、猿が嬉しそうに、そして面白そうに意地悪く笑ったように見えた。

 ハロルドの憎悪はこれまでも血管を突き破るだろうと思われるほどの激しさだったが、猿の薄汚い愉悦に、ハロルドの全てが激昂という言葉では生易しいものに支配された。


「貴様…! 貴様はどこまで腐っているんだっ!?」

「ほう。たとえばどんなことだ?」


 ジャックはこれ以上面白い見物はない、というほどニタニタと笑って、器用にハロルドの拳を避けている。人差し指をクイクイと曲げて少年を挑発する。


「貴様が人でなしでっ! 易々と十数年来の信頼を裏切ることができたからといって、それをリナさんの罪になすりつけるなど…っ!」

「裏切る? なすりつける? リナはそんなことを許すような女ではない!お前は知らんのかもしれんが、リナは怖いぞ。執念深くて頭が切れるから、ほんっとーに恐ろしい」


 猿はぶるるっと震える仕草をした。ハロルドの脳裏に、リナの寂しげな瞳が浮かんだ。ハロルドを気遣う慈悲深い、そして何もかもを見通す賢い瞳はハロルドの愚かさを許していた。


「貴ッ様アアッ!! リナさんが貴様を許しても…! ぼくが許さん!!」


 ジャックは堪えきれない、といったように腹を抱えて噴き出した。ハロルドはひどい憎悪で正常な判断ができない状態だったとはいえ、決してその決定的瞬間を逃したりはしなかった。


「貴様にリナさんは…」


 ハロルドの拳がまともにジャックの腹に入った。非常に不快な音がした。しかしハロルドの拳はジャックの顎下には入らず、その顎を砕くことはなかった。ついでにハロルドの口から途絶えた罵声の続きは紡がれなかった。

 なぜなら、そのときハロルドの耳に少女の声が聞こえたから。ハロルドの既に冷静ではなかった判断能力がさらに鈍り、戸惑いが振り上げる拳の位置を僅かに下げ、言葉を宙に消してしまった。

 そして少年は猿の報復に遭った。




----




「私は一度だって、ジャックを好きだなんて言わなかったわ」


 簡素なベットの上に伏せるハロルドに、リナははっきりと言った。

 リナは機械的にタオルを絞るとハロルドの赤く腫れ上がった頬にのせた。冷ややかに見下ろされたハロルドは、ひんやりとしたタオルを手で押さえ、頬に押し当てた。ハロルドは鈍い痛みに顔をしかめ、おろおろと情けなく戸惑っていた。


「しかしですね…。その、リナさんは…」


 ハロルドの口振りは歯切れ悪く、それというのは思考回路が分断され、彼はうまく言葉を繋ぐことが出来なかった。しかしハロルドはリナの言い分に、はっきりと違和感を感じていた。

 確かにリナは当初、ハロルドのことをうっとりした目で見つめてきていたように思うし、ハロルドはリナが自分を仕えるべき領主令息への好意というには少しばかり強すぎる思いを抱いているだろうと自惚れていた。恋情ではなくとも、憧れのような淡いものは存在していたに違いなかった。

 しかし、あのとき、という明確な区切りはなかったように思うが、いつの頃からかリナの瞳からうっとりと夢見る憧れは姿を消したのだ。そして賢いリナは、ハロルドの虚勢を、そればかりか女性蔑視という決定打までかなり正確なところまで見抜いていた。

 友人としてすら許容範囲であるかも疑わしいハロルドの人格的な欠陥を知って、それでもリナが己に憧れを抱き続けているだろうと考えるほどには、自惚れてはいなかったし、世間知らずでもなかった。

 それだからハロルドは手の平を返したように、リナの前では仮面を外したのだ。もちろん、今日ほど冷酷に彼女を傷つける言葉を放ったことはなかったけれど、それはわざわざリナを皮肉って怒らせる必要性を感じなかったというだけだ。


 リナがハロルドの叔父であるジョンソン氏の庶子だと判明してから、ハロルドは叔父からリナを見つけたことによる感謝の意を受けるとともに、女癖の悪いハロルドがリナに手を出していないか探られることとなった。

 痛くもない腹を探られるのは不愉快だ。

 叔父は正妻を蔑ろにした上に、その正妻が実家から連れてきたという、正妻にとって唯一の味方であった侍女に手を付けた、らしい。そしてその侍女はお手付きとなったその翌日早朝に、館から姿を消した。正妻への謝罪の手紙だけを残して。

 叔父は侍女が消えたのは正妻が原因だと責め続け、唯一の味方であった侍女も失った正妻は、大人しい性格から叔父を恨むことも反発することも出来ず、己を責め続け、やがて心を病んだ。心身を壊した正妻は叔父の邪魔だてによって実家に帰ることも叶わず、ひっそりと亡くなり、叔父はただひたすら消えた侍女を探し続けていた。正妻との間に子はなかった。

 そんな非道な叔父に女癖が悪いと危険視されるのは、ハロルドにとって業腹だった。ハロルドは知っていたのだ。リナがジャックをずっと長いこと想っていることを。

 ナタリーがどんな経緯で孤児院に来たのか、ハロルドは知るところではないが、ナタリーが来るまで、ジャックとリナはまるで世界に二人しかいないかのように、寄り添うように互いが互いしか瞳に映さず生きてきたのだと、孤児院院長からも聞いていた。

 今では宿屋を営む娘とリナが交流をし始めたのも、娘が孤児院を出て宿屋に勤め始めてからで、そしてそれはリナがジョンソン氏に引き取られてからだ。

 宿屋の主が亡くなり、娘が途方に暮れていたところに、娘が宿屋を営めるよう金銭の援助をリナがジョンソン卿に頼み込んだことから始まった。それまでリナと娘はほとんど会話を交わしたこともなかった。

 院長はジャックとリナが二人以外と交流を持たず、閉じた世界に居続けることを懸念していて、ハロルドの介入による変化に、諸手を挙げて喜んだ。

 女の尻を見境なく追いかけるというのは、一般的に眉を顰めるような振る舞いではあるが、これまでジャックが女を追いかけるなど、見たとこもなかったと院長は言った。女どころか、リナ以外を追うことなどなく、リナ以外の手を取ることもなかったのだという。

 孤児院に来たばかりで戸惑うナタリーのことも、目の端で捉えながらも、ジャックがナタリーに声をかけることはなかった。ナタリーを気にしながらもリナから離れないジャックに見かねて、リナがナタリーに声をかけるまで。ジャックとリナは二人だけの世界で生きてきた。

 ジャックがリナを見るときの穏やかで愛情溢れる目も、リナがジャックを見つめるときの哀しみを湛えた縋るような目も、ハロルドは知っている。

 知っているのだ。

 ハロルドが孤児院に訪れ、ナタリーに惹かれてつきまとい、ナタリーのついでとばかりに調べた孤児院に、叔父の探し続けた女の忘れ形見、リナを見つけてしまったことが始まりだと。ハロルドが孤児院に足を運ばなければ、ナタリーとジャックは惹かれあいながらも、ジャックは決してリナの手を離さなかっただろう。静かな三角関係は静かなまま、きっとそのうちナタリーが姿を消すことで終止符を打ったはずだ。

 他ならぬハロルドが、リナとジャックを引き裂いた。




 ハロルドはリナがもしかしたらジャックを想い続けるのをやめようと、はっきり今日諦めるために、こんな茶番を演じているのではないかと思った。そう考えなくては、なにもかもが奇妙でつじつまが合わないのだ。

 ジャックとリナがなんと言おうと、リナはずっとジャックを目で追っていた。痛めつけられたような傷ついた瞳でジャックを見ては、寂しそうに微笑んでいた。

 そうだ。もちろん、ハロルドはわかっていたのだ。リナの自分を見つめるうっとりした瞳が、ただの憧れにすぎなかったことを。


「ハロルド様のおっしゃりたいことは、なんとなくわかるわ」


 ハロルドは頷いた。やはりリナはジャックの手前、そういうフリを演じただけなのだ。


「でもね、それを言うならハロルド様の今日の行動だって説明がつかないと思うわ」

「それはどういう…?」


 リナは少し顔を赤らめて、もごもごと口ごもった。赤い顔のまま、しかし決意した瞳でハロルドを見た。


「あなたはナタリーが好きだったはずなのに、いいえ、今だってそうよ。それなのに、あなたが怒った理由はナタリーじゃなかったんだもの」

「それは…」


 ハロルドは反論しかけて止まった。

 確かにそうだ。同じく片思いに悩む者としての同調、同情、怒り、哀しみ。それだけではあれほど我を忘れるほど、この自分が怒り狂うなどおかしい。誰にも知られるはずのなかった己の秘密すら知っている、この憎々しいまでに賢い少女が相手で。言うなれば仲間というより、ハロルドにとってリナは弱みを握られた油断ならない敵のようなものだ。

 それにリナは自分よりずっと強く賢い女で、そのリナをかばったり同情するなど、むしろマヌケな道化者になるばかりだということをハロルドはよくわかっている。


「ああ…たしかに」


 ハロルドは疲れたように大きく息を吐き、唸った。キャンベル家の者としてあるべき姿…はもう、ここまで貧相な姿を露わにされたリナの前では、滑稽でしかないと乱暴に腕と足まで放り出した。

 まぶたを閉じたハロルドは、空気が僅かに揺れるのを感じて、リナが笑ったのだと知った。しかしそれほど悪い気はしなかった。


「それにしても、どうやってジャックを懲らしめてやろうかしら。執念深いですって?まったく…。私がどれほどヒドイ目に遭い続けてきてるのか、わかってるのかしら」


 ハロルドはリナの言葉にどきりとしたが、何も答えなかった。リナはもちろん、ハロルドに聞かせるようにひとりごちているのだろうが、それはハロルドをどきりとさせるくらいの意地悪で許そう、ということなのだ。

 ハロルドはますます居心地悪く、この恐ろしいほど執念深く頭の切れる、そして寛大な少女に勝ち目はないとリナに背を向けた。

 リナがハロルドの顔からずり落ちたタオルを拾って、水の張った盥にもう一度浸し、絞った。

ご覧いただき、ありがとうございました。


 リナとハロルド、ジャック(+ナタリー)のお話を「お父様は150年前のこの国の王様らしい。(https://ncode.syosetu.com/n3512gz/)」で連載しております。


 リナとハロルドのお互い無関心な初対面は「ツンデレ属性、俺様傲慢王子は悪役令嬢をつかまえたい!(https://ncode.syosetu.com/n8016gz/)」で果たしています。(完結済み)


 こちらも併せてご覧いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] パラレルワールド!? ハロルド・ルート!? ナタリーの設定が微妙にズレてる!? いや、ハロルドの語りがミスリードなのか!? [気になる点] 気になる短編でしたが、青い血の~理解には、それ…
[良い点] なにやら複雑な恋愛模様はまさにアオハル!この謎を解き明かすためには「お父様はこの国の~」をもう読まなければっ ( *´艸`)
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