カナリアの死相
一定間隔で鳴り続ける鼓動の音が喉を窮屈にしている。誰かに追われているという感覚は無意識に鼓動を早めるようだった。逃げている私の息は、いつまで続くのだろうか。壊れたメトロノームは、数分後にガタが来ると予期しているようで、数分後に迫る限界を想像しては、着実に間隔を狭め、鼓動を早めた。
意識しまいとしても、鼓動は鳴り続けた。息が続かない。それでも逃げ続けなければならない状況がここにあった。「あいつから逃げている」その意識だけが、私を死の美から遠ざけた。私の本懐を忍ばせた。
だから私は常に逃げた。
私は何から逃げていたのだろうか。
それは憎々しい父親かもしれない。
それは子離れしきれず、常に責任感に追われている母親かもしれない。
若しくは、鬱陶しい自分自身からかもしれない。
コーヒーを飲むと腹を下す自分かもしれない。
人混みが、眩い日差しと眼差しが苦手な自分、サングラスが手放せない自分かもしれない。些細な音に鋭敏に跳ねる肩、突然話しかけられると身体が跳ね、「怯えている」と相手に言わせてしまう自分。
生まれてからずっと、恥ずかしいような気がしている自分。
他人の感情が波のように押し寄せ、泡を残して潮が引いていく。
対峙した人間の表情、強張り、愛想、相貌、愛憎。常に夕暮れの街中。通りすがりの横顔と帯び続ける憂い。警鐘が鳴り、鬱憤を嘆いた女性。背中で傾聴する男の反論、喧嘩の始まり。
私は無敵だ。
敵は誰だ?
己だ。
他人の感情には敏感だが、自分の感情に対して鐘は鳴らない。しかし鼓動は鳴る。誰がために鳴り続けるのだ。今尚鳴り続ける鼓動は、いつまで続く。その音だけが私を抱きしめてくれる。飛び出そうな心臓、心臓の容が想像できるほどの上下運動。凍えるような冷たさとぬめり。
私は目を開けた。
視界はぼやけている。
鳥肌が立つ前身と滑らかな肌触りの中、夕日のような橙の明かりが溶けてぼやけている。
切迫する想い。身体は重い。しかし、逃げ続けなければならない。だから身体は想いばかりに馳せる。
夕日を覆った雨雲が此方を覗いているような気がした。私の視界はぼやけているが、雨雲は私のことをはっきりと視認しているのだろう。
そう思い至った途端、身体から力が抜けた。大きく気泡を吐かずにいられなくなった私は、そのときやっと逃げることから逃れた。鼓動の間隔はほぼないに等しい。鼓動の音は連射された打ち上げ花火の破裂音。それに伴って痙攣したように上下する胸と腹。
死が見えた。
その美しさと言ったら。
吸わずにはいられなくなった私の口は、湯舟の水を飲みこんだ。刹那に陶酔した私が飲み込んだそれは、アルコールの味がした。
酩酊した私が見ていたのは、ぼやけた視界ではなかった。夕日のような暖色の電球。エコーのように反響する浴室。私は誰かに抱きかかえられ、私の明瞭な視界が見ていたのは美しい死。
思想が弾ける。
「俺だって、生まれたくて生まれてきたんじゃない……」
「死にたいのに死ねない身体は誰が作ったの?」
「傲慢な奴は嫌いだ。でも、傲慢な奴が一番キラキラしてる」
「俺より優しいやつに優しくしても、その気遣いが痛い、って言われて無駄なんだよ」
「優しい奴が死ぬのってどうしてなんだよ……」
私は初めて心の内を嘆いた。世界や他人の不幸を悲しむことをやめなかった私が、自分を悲しむということが、どういう意味を持つのか。それは私自身も自覚していた。しかし吐露は止まらなかった。安堵が大きすぎたのだ。
金鶴のために父と母に追われていた私は、湯舟に仰向けで息を潜めていた。ぼやけた視界に暗がりができたとき、私は覚悟した。あの強欲な父。私を血縁で掴んで離さない母。そのどちらかに追いつかれたと思ったからだ。
私を抱きかかえ、湯舟から出してくれた友人の顔を見たとき、泣きたくもないのに涙が溢れて止まってくれなかった。私のことを思って身を挺して追ってきてくれた友人には、頭が上がらなかった。助けてくれと頼んだ覚えはない。しかし、助けてほしい気がしなくもなかった。それを見え透いた嘘かのように「私がしたいからこうした」と生真面目に話す友人の声は、どこか母の声に似ていた。頬に触れた柔らかいそれは、湯舟の水で滑らかさをなくし、マスク越しのキスのような味わいだった。
「ほら、もうあなたの大事な人はこの世にいないでしょ? 生きる意味はもうないじゃない。私と一緒に来なさいよ」
其の時、友人の顔の輪郭がぼやけ、私を抱きかかえているのが母だということに気が付いた。母は風呂上がりの幼児の身体を拭くように、私の頭、身体をまんべんなく拭いた。
こうして、三日だけのかくれんぼは明けた。
その日の夜、私は籍を入れた。
カナリアが鳴いている。
政略結婚とはいえ、相手の女性は私のことを好いているようだった。一つ屋根の下、同じ釜の飯を食べ、寝床を共にし、彼女はいつも楽しそうだった。
「どうしてそんなにいい顔をしていられるんだ?」と訊けば、彼女はこう言った。
「あなたのことが好きだから。初恋の女性を母親に殺されても、受け入れて生き続けているあなたが格好いいから」
「そんなことじゃ……」
「私は泣いて叫んだ」彼女はそう言うと、着ていたブラウスをたくし上げ、腹を露にした。蚯蚓腫れの様な傷と、アレルギーを思わせる蕁麻疹に浸食された肌は、火傷し、肌がただれているようでとても直視できるようなものではなかった。痛々しかった。
「私のファーストキスは、大好きな人の死体だった」
生きた死体と初めて同衾した夜、私の顔から「死相が消えた」と彼女は言った。
生きている彼女と、私は唇を重ねた。其の時やっと、私の頭からピーピーと鳴き続けるカナリアが鳴き已んだ。