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急用が入り、投稿が1日遅れてしまった……ごめんちゃい。
用語を変更した箇所があるので、また前話を見てもらえると嬉しい。
そこに立っていたのは1人の少女だった。「巨大な満月の下で紫に耀く草原に立つ少女」という光景は、まるでアメリカ映画のメタフォリカルなワンシーンみたいだ。いや、実際に何らかのメタファーとして、少女は突如として現出し目の前に立っているのだ。僕に係る事柄として。スミロドンも、あの月も、この紫の草原も。ここは僕の夢の中なのだから。しかしその光景が象徴している対象については、悉に判然としない。空間的な事柄か、時間的な事柄か、生体的な事柄か、精神的な事柄か、皆目見当がつかない。記憶もアイデンティティも曖昧糢糊のまま、夢から覚めるまでは分からないのだろう。
少女はじっと、心配そうにこちらを見ている。尻餅をついてへばっている僕を注視するために、軽く背中を曲げて右手だけを僅かに持ち上げて緊張している。その所作はまるで熟練のモダンダンサーのように耽美的だ。その特別な意味を持たない動作も、総てが何らかのメタファーに思えてしまう。それにしても、映画のシーンを切り抜いたように美しい少女の一連の所作が、僕の内から生出されているものだと考えると、とても信じられない気持ちになる。
「……うん、大丈夫だよ」
僕は少女の声に応え立ち上がろうとした。しかし、「っ……」
立ち上がることはできなかった。まず身体の正面をきちんと少女の方へ向けようとしたが、身体はまるで言うことを聞いてくれなかった。全身の機能が急速に失われている。顔も上げていられない。僕の内で破裂寸前にまで膨張していた種々の情動が、張り詰めた風船の口をほどくみたいに急激に萎んでしまったみたいだ。瞼が鉛のように重く意識も朦朧とする。先ほどの言葉も実際に声に、音になっていたかすら分からない。やっと夢らしい流動体が僕の総体を包み込んでくれたみたいだ。遅いよ、まったく。
夢から覚めるにはいい頃合いなのかも知れない。少し名残惜しいけれど。
僕はそう思いながら目を閉じた。はじまりと同じ暗闇の中で、僕のまわりを吹き抜けるささやかな風が、急速ではないにしろしっかりと僕を現実へ持ち上げてくれるはずだ。エレベーターが目的の階に必ず我々を送り届けてくれるみたいに。じっくりと待とう。たとえそれが階数の表示やドアの開閉ボタンや照明もない、ただのステンレススチールの箱のような代物でも。
ザッザッザッザッザッ、ザ。
帰還を待つ暗闇の中で、草を踏みしめる少女の軽やかな足音が僕のすぐ右横までやって来た。5つの規則的な駆け足の音から、裏拍を取るような停止の音。そして右肩に柔らかい感触を覚え、小さな歌が聞こえてきた。ゴスペルにあるような短いフレーズの繰り返しだ。言葉はうまく聞き取れない。それは流動体の作用に依るものだろう。ただ、ハープのような響きを持つ声という心象だけが、僕の内ではっきりとかたちになっている。残響が膨らみながら砂浜の波打ち際のように引いては返ってくる。それはまるで、小さな子供が息継ぎを挟みながら風船に空気を送り込む時みたいだ。
僕は目を開いた。意思的にではなくどこまでも自然的に。その瞬間、僕は驚愕した。僕の体が緑色に光っているのだ。草原の輝きを上回るほどの目映さで。力が漲って、身体も急速に軽くなっていく。
「ふぅ、これでもう大丈夫です!」少女の快活な言葉が、今度はくっきりと聞き取れた。肩の柔らかな感触はなくなっている。緑の光もおさまっている。流動体の抵抗も無い。
僕はまだ夢の中にいる。紫の草原、巨大な満月、緩やかな稜線、ささやかな風。まるで上昇するエレベーターに乗ったつもりだったのに、実は下降するエレベーターに乗っていた時みたいだ。ただそれが、今となってはとても有り難かった。
僕はゆっくりと、皮膚に刺さったとげを引き抜く時みたいに慎重に立ち上がる。恐怖や痛みも無い心持ちだと、この紫の下草は赤子の産髪を撫でるような心地よい感触がした。そして身体のいろんな部位を、それぞれ僅ずつ動かしてみる。まるでポッピンを踊る時みたいに。骨や関節や筋肉に、一切のひきつりや抵抗はない。きちんと正常に動作している。僕はそのことを安堵し、深呼吸をして息を整えた。感謝を述べなければ。僕は少女の方を向いた。――いや、吸い込まれた。そこには親密な引力があった。磁石のN極がS極が惹かれるように。
同時連載。『異世界ファンタジーはハッピーエンドを求めている。』もよろしく。
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