五 – 5
義彦には意識があった。
義彦は救急車に運ばれる前に、救急隊員に告げた。
「怪我は私が刃物を持ったまま転んだせいです。
彼女は居合わせただけで、事件性はありません」
このおかげで和那は救急隊員に尋ねられることはなく、期せずして聖義の要望に応えたことになった。
病院に着いた和那は処置室の前の廊下で、義彦の治療が終わるのを待っていた。そして服に血がついていることに気がついた和那は、母親に義彦が怪我をしたことを電話で連絡した。
すると陽菜は意外なほど冷静な声で和那に尋ねた。
「海ちゃんは、義彦くんが怪我をしたことを知っているの?」
和那が返答に窮していると、背後を軽く叩かれた。
和那が振り返ると舞が立っていて、電話を代わるように合図した。
和那は携帯電話を舞に渡すと、舞は陽菜といくつか会話をして電話を切った。そして舞はとても穏やかな表情で、和那に携帯電話を差し出した。
「突然、ごめんなさいね」
和那には舞の記憶は少しだけあった。
義貴の葬式の参列者にいたこと、そして病院での転落事故のときのおぼろげなイメージだけが残っていた。
どちらも舞は綺麗で、そして怖い印象があったが、今の舞は菩薩のように穏やかで優しく見えた。
和那が声を出せずにいると、舞は和那を長椅子に座らせ、自分も隣に座って言った。
「しっかりしているのね。救急隊の人達も誉めていたわよ」
まるで母親が娘を誉めるような仕草に、和那は少しだけ落ち着いた。
そして和那は香のことを思い出した。
香とは義彦との縁で会う機会が多かったので、断片的な記憶しかなかったが、香がこの病院に入院していることを思い出して舞に言った。
「間宮さんは、この病院に入院しているのですか?」
「そうよ。あなたはお見舞いに来てくれたじゃない?」
舞は和那の記憶が失われていることを知らなかった。
和那が舞の言葉を聞いて、さらに香を思い出そうとした瞬間、激しい頭痛に襲われて顔を歪めた。
舞は和那の様子に驚き、和那の肩に触れて尋ねた。
「どうしたの?」
舞は和那の記憶の一部が香によって消されていることに気がつき、愕然とした。
--香・・・何てことを。
舞は香の身体が動かなくなったのは、精神的なものだと思っていた。
しかし和那が記憶を消されていたことを知り、香の身体的ダメージの理由を悟った。
人の記憶をチカラで消すことは、相当の体力と能力が必要だった。
舞はかつて和那の父親である大和の記憶を消した。
舞は大和からチカラを得たが、記憶を消すために使ったチカラで体力をかなり消耗し、数日間は寝て過ごすほどだった。
記憶を消すことは記憶量と本人の重要度により、多くのチカラが必要だった。和那から義彦の記憶を消すことは、和那にも香にとってもダメージが大きかった。
舞は和那の側頭部の両側に手を当てると、和那に囁いた。
「記憶を戻すことはできないけれど、記憶の整理をするから、もう頭痛で苦しむことはないわ。そのくらいしか、あなたにしてあげられなくて・・・ごめんなさい」
その直後、舞の両手が鈍く光った。
そして和那の意識が消えた。




