五 – 4
義彦が自分の部屋を出ると、目の前に海が立っていた。
海は聖義のマンションで暮らしていたので、普段は家にいなかった。
義彦は和那を隠すようにドアを閉めると、少し驚いて言った。
「どうした、海?」
義彦はそして、海が右手にナイフを持っていることに気がついた。
海は色白の顔をさらに青くし、無表情のまま義彦に近づくと、義彦に抱きつく勢いで義彦の胸にナイフを突き立てた。
海は義彦の胸の中で呟いた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
義彦はドアの脇の壁にもたれかかると、膝をついた。
海は兄とともに座り込むと、兄の胸からナイフを引き抜いた。
義彦は自分の傷口を左手で押さえながら、海の挙動を見ていた。
海はナイフを逆手に取り、自分の首にナイフの刃を当てると、無表情のままで呟くように言った。
「私も一緒に逝くから」
そして海は首にナイフの刃を滑らせながら、手前に引いた。
海の首は血で染まった。
しかし、それはナイフについていた義彦の血だった。
海が目を開けると、目の前にいた兄の瞳が朱紫に変化していた。
そして次の瞬間、海の手からナイフが飛び、廊下の奥にあるリビングの扉に突き刺さった。
義彦がチカラを使って海の首を守り、その手からナイフを離したのだった。
海は兄が持つチカラの事を知ってはいたが、チカラを目撃したのは初めてだった。
驚いて我に返った海は呟いた。
「おにい・・・ちゃん」
そして兄ならば、自分の襲撃をチカラで避けられたことに海は気がついた。
義彦は右手で海の頭を抱き寄せると、小声で言った。
「お前は死ぬな・・・親父が命をかけてお前を守ったのを忘れたのか」
兄の声を聞いて、海は自分のしたことを認識した。
「おにいちゃん・・・お兄ちゃん!」
義彦の傷口からは血があふれ出していた。
海を抱き寄せた義彦の手は、力なく海の横を滑り落ちた。
義彦は目を閉じ、身体を壁にもたれかけると、そのまま横に倒れた。
和那は海の叫び声に驚き、慌てて服を着ると、義彦の部屋から出た。
次の瞬間、和那の目に映ったものは、胸から血を出してドアの横に倒れた義彦と、血だらけの手で兄にすがりつく海の姿だった。
「義彦さん・・・義彦さん!?どうして?」
和那が問いかけても、義彦は踞ったまま動かなかった。
和那はすぐさま携帯電話を取り出して救急車を呼んだ。
そして和那はハンカチを取り出すと、壁と義彦の背後の間に割り込み、義彦を抱え込むようにして腕を回し、傷口をハンカチで押さえた。
すると唐突に家のインターフォンが鳴った。
救急車が来るには速すぎた。
しかし和那は、わずかな期待を込めて海に言った。
「海さん。玄関に出て下さい」
海は呆然としていた。焦った和那は叫ぶように言った。
「早く!玄関を開けて!」
悲鳴のような和那の声を聞いた海は、弾かれるように玄関へ向かった。
そして海がドアを開けると、そこには聖義が立っていた。
血で染まった海を見た聖義は慌てて言った。
「海・・何があった?」
海は蒼い顔をしたまま何も答えなかったが、聖義は海の肩越しに義彦が倒れているのを見て状況を悟った。
聖義は義彦の前に立つと、傷口を覆う和那の手の上に自分の手を翳した。
すると聖義の瞳が鮮やかな青紫に変化し、同時に聖義が翳している手の下が淡く光った。
和那は聖義が来たことも、そして聖義の瞳が変化したことに驚いて声を出せずにいた。
和那が我に返ったときには、聖義の瞳は元の色に戻っていた。
聖義は手を義彦の傷口から避けると和那に告げた。
「義彦さんの血は止めた。絶対に死なせない。
だから橋本和那、俺の言うことを聞いてくれ」
和那は聖義の勢いに押されて言葉を出せなかった。
聖義は続けて言った。
「救急車が来たら搬送先に義彦さんの職場の病院を指定して。
病院には俺から連絡をしておくから受け入れてもらえる。
そして、これは俺からの頼みだ。
この状況の経緯について、救急隊員には言わないでもらえないか?
病院に着いた後は何も訊かれないように対応する」
和那は聖義の言葉に応えなかったが、聖義は構わずに続けて言った。
「海を嫌いにならないでほしい。
君には記憶がないかもしれないが、海と君はすごく仲が良かった。
海は君も義彦さんも大事に思っている。それは信じてくれ。
もし義彦さんに何かあったら、俺が責を受ける。これは俺のせいだ。
だから、頼む」
和那は黙ったまま義彦の背中に顔を押しつけると、義彦を抱く腕に力をこめた。聖義は海を抱きかかえるようにしてリビングに入った。
そして再びインターフォンが鳴った。
リビングのドアが閉まると同時に、玄関のドアが自動で開き、救急隊員が入ってきた。




