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四 – 9

翌朝、和那が目を覚ますと海の声が聞こえた。


「和那ちゃん、おはよう」


海は先に起きていて、服を着替えていた。

足は少し引きずるように歩いていたが、顔色は悪くなかった。

和那はとまどいながら尋ねた。


「おはようございます。起きて・・・大丈夫ですか?」


海は兄から、和那に自分に対する記憶がないことを聞かされていた。

これまでの和那は海に敬語を使うことはなく、友達のように接していた。

だから海は和那の話しぶりから、兄の話が事実であることを悟った。

和那の口調は海を寂しい気持ちにさせたが、それでも海は穏やかな表情で和那に返した。


「うん。私は元々、入院するほどの怪我ではなかったから。

和那ちゃんは?痛みはどう?眠れた?」

「あ・・はい」


ほどなく病室に看護師が来ると、和那の血圧と体温を測って出ていった。

和那が起き上がろうとするのを見た海は、和那の身体を支えて背後の枕の位置をずらした。

和那は海の配慮が嬉しかった。


「ありがとうございます」


和那が海に礼を言った直後、病室のドアをノックする音がして、陽菜が入ってきた。

陽菜は出迎えた海の元へ行くと、海の肩を抱き心配そうに言った。


「海ちゃん、階段から落ちたって聞いて・・・起きて大丈夫なの?!」


海は陽菜の勢いに面食らったが、すぐに微笑み返すと静かに言った。


「私は大丈夫です。和那ちゃんが助けてくれたから」


陽菜は海の言葉に安堵をすると、娘の側に駆け寄って顔を覗きこんだ。


「和那、怪我はどう? 」


陽菜は娘の頭に巻かれた包帯に触れると、不安そうな表情になった。


「熱っぽい?頬も少し腫れているわね」


和那は母親を心配させないように、少しだけ明るい声で言った。


「昨日は痛かったけど、一晩寝たらそれほどでもなくなった」


和那の言葉に陽菜は安堵した。


「よかった。入院って聞いたから心配で・・・。

二人とも、香ちゃんのお見舞いに来ていたの?香ちゃんも具合悪いの?」


陽菜の言葉に和那はどう返答してよいか分からなかった。

すると海が応えた。


「和那ちゃんは事故直前の記憶がないようです」


海の冷静な言動に陽菜は絶句した。

海は続けて言った。


「このたびは私のせいで和那ちゃんに怪我をさせてしまい、申し訳ございません。

和那ちゃんの入院費と治療費はうちで対応させていただきます、と兄が言っていました」


海は深々と頭を下げた。

陽菜は海の顔を覗きこんで諫めた。


「そんな・・・他人行儀はやめて。海ちゃん」


しかし海は頭を上げずに続けた。


「和那ちゃんは頭を打っています。今日も検査をしますが、何かあったら・・・」

「頭を打って和那が馬鹿になったら義彦さんに責任をとってもらうから、大丈夫よ」


陽菜の軽口に、海は首を横に振って告げた。


「和那ちゃんは、私と兄に関する記憶がありません。

兄と恋人だったことを、和那ちゃんは覚えていません」



若い医師は、和那の頭部の検査結果を見ながら言った。


「脳の損傷や頸椎への異常は見られないね。

外傷は安静にしていれば大丈夫だと思うけど、記憶障害があるし、熱もあるから、しばらく入院して経過を見ようか」


和那は、病院にいれば義彦に会えると一瞬だけ考えた。

しかし、母親の不安そうな顔を思い浮かべた和那は、すぐに医者に返した。


「できれば、家に帰りたいです」


医者は少し考えているようだったが、ゆっくり口を開いた。


「そうか。間宮先生も様子を見に行くと言っていたし、安静にしているのならば家でも病院でも同じ事だし。

しばらく家で安静にして様子を見てみましょうか。また五日後に来て下さい」

「ありがとうございました」


和那は医師に礼を言うと診察室を出た。

廊下は夏の陽射しで眩しかった。

和那が病室に戻ると、部屋には誰もいなかった。

和那はベッド周りのカーテンを引くと、病院の服から外出着に着替えた。

そして自分の身体を見て、あることに気がついた。


「あれ?」


怪我をした直後の和那の身体には肩の打撲の他に、足や腕に蒼いあざができていた。

しかし今は肩の痛みも落ち着いていて、足の打ち身も黄色くなってあまり目立たなくなっていた。

和那は不思議に思いながら着替えを終えたところで、病室のドアをノックする音がして、義彦が病室に入ってきた。

白衣を着た義彦は医者の口調で尋ねた。


「具合はどう?」


和那の目に映る義彦は疲れているように見えたが、和那はあえて尋ねなかった。義彦が辛い表情なのは、自分の怪我が原因であることを和那は知っていた。

だから和那は努めて明るく言った。


「大丈夫です。今日、退院します」

「そうか」


義彦の安堵した表情に、和那は胸が熱くなった。

和那は相変わらず義彦を思い出せずにいたが、まるで体が覚えているように義彦を求めた。

和那は少し照れて俯きながら義彦の前に立つと言った。


「昨日の夜は、来てくれて・・・ありがとうございました。

すごく嬉しかった・・・です」


その言葉を聞いた義彦は、和那の頭を軽く抱き寄せて自分の胸に当てた。

義彦は和那を抱きしめたい感情を抑えていたが、和那の一言で和那に触れたい気持ちを抑えられなくなった。

義彦はすぐに和那の記憶がないことを思い出した。

しかし和那を突き放す訳にもいかず、和那の様子を窺っていた。

和那は少し驚いたが、目を閉じると身体を義彦にもたれかけた。

普段の和那は初対面の人間に自分から近づくことはない。

しかし義彦は違った。

夜中に側についていてくれたことも、今、義彦の胸の中にいることも、当たり前のように和那には思えた。

和那は義彦の匂いと体温を感じながら思った。


--義彦さんは知らない人じゃない。私が記憶を失っているだけだ。

だってこの感じ、前にも同じ事があった気がする。

義彦さんのことを思い出したい。

どんな人なのか、知りたい。


和那が義彦の記憶を辿ろうとした途端、頭に激痛が走った。


「あっ?!」


まるで頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を感じた和那は、頭を抱えて踞った。

崩れ落ちようとする和那の体を、義彦は慌てて抱えながら言った。


「和那?どうした」


和那は頭を下げたまま、呟くように言った。


「頭が・・・痛い」


義彦は和那の体を抱え上げてベッドに横たえると、掛け布団を掛けた。

和那の顔色は明らかに悪くなっていた。

目から大粒の涙がこぼれた。

義彦は和那が落ち着くのを待ってから冷静に尋ねた。


「頭はどんな風に痛む?今もずっと痛い?」


義彦はチカラで和那の頭痛の原因を探ろうと、右手で和那の頭に触れた。

元々微熱があった和那の額には、汗がにじんでいた。

和那はゆっくりと思い出すように言った。


「大丈夫です。義彦さんのことを・・・思い出そうとしたら・・・頭が急に痛くなって・・・うっ」


和那の頭痛はすぐに治まったが、義彦のことを思い出そうとすると再び激痛が走った。

痛みで顔をゆがめる和那を見た義彦は静かに言った。


「頭部には異常はないと診察が出ていたけど、入院してもう少し様子を見たほうがいい」


和那は痛みで涙目になりながら、義彦の顔を見た。

今まで以上に心配そうな表情の義彦に和那は言った。


「でも・・病院にいると、母さんが心配するから」


それは嘘だった。

本当は自分を心配する義彦に迷惑をかけたくなかった。

すると義彦は、和那の頭から手を離して寂しそうに言った。


「俺を思い出すのが辛いなら、無理に思い出さなくていい。

俺も病室に来るのは控えるから、病院に残ろう?」


その言葉を聞いた和那は何故か胸が苦しくなった。

自分から義彦が離れようとする感覚を感じた和那は、慌てて言った。


「違う。そんなの嫌。思い出したい。私は・・・」

「怪我が治ってからにしなさい」


和那には義彦の言葉が拒絶に聞こえた。

和那は左手で義彦の白衣を掴んで言った。


「違う。私は・・・義彦さんに会いたい・・・あっ」


その直後、和那は再び頭痛に襲われた。

それでも和那は頭痛に耐えながら、振り絞るように言った。


「きおくがなくても・・・わかる。

義彦さんは絶対、大事な人だって。だから」


--そばにいてください。


和那は涙声だった。

頭痛の痛みで涙を浮かべていたせいだったが、それはまるで恋人への思慕から出たように和那には思えて照れた。

自分でも、どうして義彦に会いたいのか判らずにいた。

しかし、和那はある確信を持っていた。


--ちゃんと言わなきゃ、義彦さんは私のために、私から離れようとする。

そういう優しい人だ。


和那はそれだけは避けたかった。

和那の言葉に、義彦は救われたような表情で言った。


「俺といても頭痛はないのか?」

「はい。思い出そうとしなければ」


義彦は和那の手を白衣からゆっくり外すと、その手を自分の左手で握った。

そして右手でハンカチを持ち、和那の涙と額の汗を拭うと、和那を優しく見つめながら言った。


「過去のことは思い出さなくていい。

和那が俺に会いたいのなら、どこにいても会いに行く。

だから、今は怪我を治すことだけ考えよう。いいね?」


和那は黙って頷くと、義彦と繋いだ手に力をこめた。



香は事件後に初めて意識が戻った。

香は黙って病室の天井を眺めた。

舞は香に声をかけた。


「香、気がついた?」


舞は香の側に行くと、穏やかに言った。


「気分はどう?」


香は海と和那の怪我の様子を聞こうとしたが、自分の身体が動かないことに気がついた。

手を動かそうとしたが、手はおろか指すらも全く動かなかった。

それは不思議な感覚だった。

母の声も聞こえるし、意識はあるのに身体が動かないのだ。


「香?どうしたの?」


舞は香の異変に気がつき、慌てて看護師を呼ぶブザーを押した。

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