四 – 8
「お兄ちゃん」
義彦は海の声で我に返った。
目の前にいる和那は落ち着いた寝息をたてていた。
義彦は小声で海に言った。
「ごめん、起こしたか?」
「ううん。和那ちゃんの怪我は・・・」
義彦は和那に翳していた手を離して言った。
「大丈夫。頭と顔を打っているから今は腫れてかわいそうだけど、眼や脊椎には異常がないから、いずれ治る」
義彦のチカラでも、再生できないものを治すことはできない。
和那の傷は深かったが、治癒できる範囲の怪我で済んだのは和那にとっても、義彦にとっても幸運だった。
義彦は和那の布団を整えてから離れると、海のベッドに向かった。
海は和那を見ながら呟いた。
「一番・・・傷つけたくなかったのに」
泣きながらそう呟く海の頭を、義彦は無言のままで優しく撫でた。
海は涙声で言った。
「和那ちゃんが記憶をなくしたのは私のせいかもしれない。
落ちたときの衝撃がすごくて、無意識にチカラを使ったのかもしれない」
海が感情を口にするのは珍しいことだった。
義彦は子供をなだめるように海を見て言った。
「海のせいじゃない。自分を責めるな。それよりも・・・彼女にとって、お前はとても大事な存在だって分かっただろう?」
海は涙を拭いて言った。
「私、もっと強くなりたい。自分も・・誰も傷つけなくてすむように」
義彦は黙って頷くと、妹が眠るまで側で看ていた。
義彦が和那と海の病室を出ると、廊下に聖義が立っていた。
義彦が病室に入る前は見かけなかったので、香の病室に寄った帰りかもしれなかった。
しかし時間はすでに午前三時を過ぎていた。
聖義は真剣な表情で病室の扉を見ていた。
その様子に義彦は少し驚きながら、言った。
「海に用事か?もう眠っているぞ」
聖義は無言でいた。
義彦は聖義の肩に手を置くと、静かに言った。
「色々あって疲れただろう。今日はもう休め」
聖義は辛い表情をして俯いたまま、黙っていた。
義彦は穏やかな口調で言った。
「眠れないのなら、少しつきあわないか」
義彦は聖義を促すと、階下の自動販売機に連れて行こうとした。
聖義は義彦に促されるままに歩いたが、階段に来たところで聖義は呟いた。
「あの子はすごい。こんなに段差があるのに、とっさに海を庇えるなんて」
義彦は階段を数歩降りたところで、階段の踊り場に目をやった。
そこは事故現場ではなかったが、ほぼ同じ構造だった。
義彦の頭に、二人が倒れた姿がフラッシュバックした。
血だらけでぐったりとして動かない和那と、泣きじゃくる海の顔が、義彦の脳裏に焼き付いていた。
認めたくはなかったが、もし和那が海を庇わなければ、背後から落ちた海は死んでもおかしくなかった。
それでも義彦は和那に『どうして庇った』と言いたかった。
血の気のない和那の顔と、自分の両手に残った血糊を思い出すだけで義彦は胸が痛かった。
義彦は残像を振り払うように黙って階段を下りた。
自動販売機で義彦はコーヒーを二つ買うと、一つを聖義に渡して聖義と並んで長椅子に座った。聖義はコーヒーを一口飲んでから言った。
「義彦さんは大和さんのこと、知っていたの?彼女のチカラのことも。
知っていたから橋本和那とつきあったの?」
義彦は即座に返した。
「いや。知らなかった。親父も何も言っていなかったし」
聖義は軽く笑うように言った。
「俺は・・・彼女に奇妙に惹かれる自分を感じていた」
義彦は聖義の告白に声が出なかった。
聖義はコーヒーを見ながら続けた。
「以前、彼女にキスをしたのは海へのあてつけだった。
でも今になっても、どうして彼女にキスをしたのか分からない。
さっき・・・彼女の隣にいたときも落ちつかない自分がいた」
聖義は重い内容の割に淡々と話をした。
義彦は驚いて聖義を見たが、聖義は義彦に構わず続けた。
「俺は彼女の事を何も知らない。興味もない。
なのに、彼女に触れようとする自分がいた。
まるで間宮の血が、チカラの向上を願って彼女を欲しているみたいに。
でも」
そこで聖義は義彦をまっすぐに見ながら言った。
「俺に必要なのは海です。彼女じゃない」
聖義の言葉に義彦は何も返せなかった。
聖義は淡々と続けた。
「それに間宮を継ぐためには、チカラの大小は問題じゃない。
チカラをどう活かすかで将来が変わる。じーさんがいい例だ。
じーさんは自分の独裁で事業を進めたせいで、じーさんのチカラが不安定になった途端に業績が傾いた。
どんなに大きなチカラを持っていても、ひとりの能力だけでは事業の発展は望めない。
親父と義貴さんはそれに気がついたから、人材を見極めて育てるようにしている。
この病院の運営資金のほとんどは、義貴さんが間宮家の傘を借りた企業で収益を得て賄っている。
その企業は義貴さんから経営手法を学んでいて、今でもそれを守っている。
だから義貴さんが亡くなった後もちゃんと利益を出せている。
お袋にはそれを何度も説明しているのに、お袋はチカラに頼ることばかり考えている」
聖義の祖父である義樹は、息子の義貴と同様に高い能力を持っていた。
しかし義樹の代で間宮コンツェルンは大きく傾いた。
それは義樹がチカラで読んだ未来が、それを元にして行った行動によって未来が大きく変わることを考慮しなかったせいや、義樹の妻である美子の勝手な行動も影響していた。
晩年の義樹は、間宮をわざと崩壊させているようだった。
義彦は聖義を見ながら思った。
--聖義はやっぱり親父の息子だ。物事を合理的に分析している。
聖義なら間宮の後継者としてやっていける。
義彦はゆっくり口を開いた。
「なら話は早い。早く海と結婚しろ。海はお前の力になる」
聖義はゆっくりと義彦を見返した。
「俺は・・・義彦さんから海を奪う気がしていた」
義彦は軽く笑いながら返事をした。
「それじゃあ、いつまでも海を嫁に出せないよ」
義彦の言葉に、聖義は救われた気がした。
聖義は安堵したように少し笑うと、からかうように言った。
「彼女がいるから大丈夫、か?」
義彦は聖義に和那の記憶が失われていることを告げられなかった。
義彦は軽く聖義を睨みつけるようにして言った。
「お前が彼女にキスしなかったら、俺たちはつきあっていたか分からない」
聖義はコーヒーを吹き出しそうになった。
「本当?後で海から二人のことを聞いて、義彦さんが怒っていた理由を納得したのに」
「それは違う。海の婚約者なのに何をやっているのかと思っただけだ」
そう言いながらも、義彦は二人のキスシーンに衝撃を受けたのをはっきりと覚えていた。
その後で落ち込んでいた和那を、義彦は見ていられなかったのだ。
聖義は嬉しそうに言った。
「でも、嫌だったから彼女とつきあったのだろう?」
聖義の言葉に照れた義彦は返事をしなかった。
そして義彦は飲み終えたコーヒーの紙コップを捨てようと立ち上がった。
しかしその直後、めまいを感じて膝から崩れ落ちた。
「義彦さん」
異変に気がついた聖義はとっさに義彦を抱きとめた。
反射的にしたことだったが、義彦に触れた途端、聖義は三年前に起きた義貴の事故を思い出した。
暴走したクレーン車が聖義に向かって来たときに義貴が自分を庇い、そして自分の腕の中で息絶えた事を。
義彦はすぐに自分の足で立ち上がると、聖義に言った。
「すまない。少しチカラを使いすぎた」
そう言って軽く笑う義彦を見て、聖義は思った。
--義貴さんが亡くなった後の雰囲気に似ている。
義貴を亡くした義彦はしばらく情緒不安定になっていた。
その時と今では様子は違うが、それでも義彦にとって、和那と海の怪我が堪えていることを聖義は認識した。




