四 – 2
この少し前、聖義は久しぶりに自宅に戻っていた。
聖義は大学に入ってから会社の近くのマンションに住むようになり、ほとんど実家に戻ることはなかったのだが、海に家に戻ることを懇願されたのだ。
数日前、聖義が海と暮らしているマンションに戻ると、海が明るい表情で出迎えた。
「街で和那ちゃんに会ったの」
「そう」
海は和那と話をした後は、不思議と機嫌が良かった。
海が入院した時にも何度か見舞いに来ていた海の従妹・橋本和那。
聖義とは直接の親戚ではなかったが、何度か見かける機会はあった。
聖義にとって和那は『少し背の高い、可愛らしい高校生』というイメージしかなかった。
しかし海が入院中に口論をした後、見舞いに訪れた和那にキスをしたことがあるので、和那の名前を聞くと少し心が痛かった。
聖義は自分でもどうしてあんなことをしたのか、未だによく分からずにいた。
海は言葉を選んで聖義に言った。
「香ちゃんも見かけた。香ちゃん、和那ちゃんに式神を使っている。
それで時々・・・和那ちゃんを操っているみたい。
香ちゃんは精神的に不安定みたいで、心配なの」
海の言う『式神』とは、下宮の能力者が他人の行動を監視する能力を指していた。
聖義は海の目から視線を逸らして言った。
「そう、か」
「一度、香ちゃんの様子を見て来て欲しい」
海の言葉に聖義は少し悩んだ。
妹の事は心配だったが、母親と話をするのは気が重かった。
聖義の母親・舞は精神の安定が保てず、自宅にひきこもるようになっていた。そしてひきこもる原因を作ったのは自分だった。
聖義は舞に一番言ってはいけない言葉を言った。
--俺は母さんの子供じゃないのだろう?
聖義の実の両親は、伯父と叔母にあたる橋本義貴と姫呼だった。
そして、自分を育ててくれた両親の実の子供は海だった。
舞には人を操るチカラがあり、同じ日に生まれた二人を交換した。
舞は間宮の跡取りである男児を産みたかったのだが、女児を身ごもったことから、同じ間宮の血を引く義貴の子供を自分の子供と交換したのだ。
聖義はその事実を義貴の死に際に知らされた。
そして母親とのふとした口論で、聖義は義貴と約束した『自分からは両親にそれを口にしないこと』を破ってしまった。
きっかけは今では思い出せないほど些細な出来事だったのだが。
舞は聖義に泣いて詫びた。
しかし聖義の父親・樹は表情を変えないまま『俺の子供はお前と香だ』と断言した。
樹は舞に責任転嫁したわけではなく、そう断言できるだけの覚悟をした上で子供を交換したのだと聖義は悟った。
父親は、最後まで自分を息子だと言うだろう。
実際、戸籍上は樹と舞の実子だったので、聖義の状況は変わることもなかった。舞だけが、母親だけが静かに心を閉ざした。
聖義は、母親の不安定な状況が香にも影響したのだろうかと思った。
「わかった」
聖義は海にそう応えたが、本当は気乗りがしなかった。
そんな聖義に、海は穏やかな表情を見せた。
「ありがとう」
聖義は海の表情を見てようやく、家に戻る気持ちになれた。
聖義が玄関に入ると、家政婦が出迎えた。
「聖義様、お帰りなさいませ」
「母さんと香は?」
「自室におられます」
二人には人の動きを感知するチカラがあったので、聖義が帰ってきたことを感じているはずだった。
家政婦の言葉に聖義が頷くと、まっすぐ香の部屋に向かった。
「香、俺だ」
聖義が部屋をノックしたが香の反応がなかった。
「開けるぞ」
そう言ってドアノブを開けた瞬間、部屋の中から悲鳴が聞こえた。
「香?」
香は身体を震わせながら部屋の中で倒れていた。
聖義は慌てて香の身体を抱き上げた。
「香、しっかりしろ」
香は目を見開いてひきつけを起こしたまま、聖義の言葉に応えなかった。
香の悲鳴を聞きつけた家政婦が、聖義の後ろから入ってきた。
「お嬢様、どうされましたか?」
聖義は家政婦に向けて冷静に言った。
「車を呼んでくれ。それから病院に連絡して」
そして聖義は家政婦の背後に母親の姿を見つけた。
能面のように表情のない母親を見た聖義は、身体が凍るような気がした。
和那が目を覚ますと、不安そうな表情で見つめる義彦がいた。
「義彦さん」
和那はソファに寝かされ、タオルケットを掛けられていた。
義彦は、和那の額に乗せていた濡れタオルを外して尋ねた。
「気分は?」
義彦はそう言うと、和那の額に触れた。
和那は義彦の手のぬくもりが嬉しかった。
そしてふと義彦が、Yシャツとチノパンに着替えていることに気がついた。
和那はそれに違和感を覚えながらも、義彦の言葉に応えた。
「大丈夫です」
和那は少しだけ頭痛を感じながら、いないはずの香の気配を感じたことを思い出した。
それは自分の身体が自分ではないような、不思議な感覚だった。
義彦は和那から手を離して言った。
「少し熱があるみたいだ。暑い中を歩いてきたから、軽い熱中症かもしれないね」
「今・・・何時ですか?」
「もうすぐ五時になる」
時間を聞いた和那は驚いて飛び起きた。
義彦の家に来たのは午後の一時過ぎだったので、かなりの時間を寝ていたことになる。
和那は時計を見て呟いた。
「こんなに寝てしまった」
--せっかく、義彦さんの家に来たのに。
和那が愕然としていると、義彦は言った。
「お茶でも飲もうか。アイスは冷凍庫に入れてあるから食べよう。
一息入れたら家まで送る」
「えっ、まだ時間も遅くないし。私は大丈夫です」
和那は焦った。
今日は母親が父親のところへ行って留守なので、義彦とずっと一緒にいられるチャンスだった。
そんな和那の様子を見ながら、義彦は言った。
「体調も良くないみたいだし。それに、さっき聖義から連絡があって」
聖義の名前を聞いて、和那はますます慌てた。
「海ちゃんに何かあったのですか?」
「いや、香ちゃんが倒れてうちの病院に運ばれた」
「間宮さんが?」
和那は次の言葉が出てこなかった。
「命に別状はないそうだけど、様子を見てこようと思って」
「・・・そう・・・」
和那はあからさまに落胆した。
香のことは気になったが、今日は義彦との距離を縮めたいと思ってきたのに、寝て過ごしてしまったからだ。
それに、和那と義彦に血縁はないが、香と義彦は血縁者だった。
和那は義彦の恋人だったが、それよりも義彦と血縁関係のある香が羨ましく思えた。
義彦は微笑みながら言った。
「コーヒーを入れるよ」
そうして義彦は和那が寝ているソファから離れようとした。
和那はとっさに義彦の腕を両手で掴んだ。
義彦が振り返ると、和那は照れと恥ずかしさで俯きながら一気に言った。
「あのっ、私、今日は・・義彦さんと一緒にいるつもりで来たのです」
和那の勢いに、義彦ははぐらかすように応えた。
「ずっとそばにいたよ?」
「ちがう、そうじゃなくて。私・・今日は・・母さんは父さんのところに行っているから。義彦さんと・・一緒にいたい」
和那は恥ずかしさのあまり、自分が震えていることに気がついた。
和那は義彦の腕を離すと、真剣な表情で続けた。
「前にこの家に来てから、義彦さんは私に触ろうとしない・・・どうして?」
義彦は黙ったまま和那を見た。
和那の言葉の意味は、香の望みと同じだった。
しかし義彦には香と和那の違いがはっきりと分かった。
香は淡々と話すが、和那は感情がはっきりと出るので、義彦は和那の気持ちが読めた。
和那の自分への愛情を感じた義彦は、不思議と安堵していた。
義彦は和那の肩に軽く触れると、諭すように言った。
「あんな風に君を抱いて、傷つけてしまったから」
それは義彦の配慮だったが、和那にとってはまるで自分を拒絶するかのように感じた。
和那は、むきになって否定した。
「そんなことない。突然でびっくりしたけど、私・・嬉しかった。
あれから私に触れないのは・・・私が高校生だからですか?」
和那の言葉に、義彦は少し考えてから頷いて言った。
「君を抱くのはまだ早かったと思っている」
和那は義彦の冷静な言葉にかっとなった。
「義彦さんは私と・・つきあうことを後悔しているんですか?」
和那はそう言ったが、同時に一番聞きたくない質問を口にしたことを後悔した。
--義彦さんに『後悔している』って言われたら、私はどうするの?
義彦は和那の言葉を素直に受け取り、答えようとした。
「そうじゃない。傷つけかと思って悪かっ・・・」
和那は義彦の言葉を遮った。
「謝らないでください!」
和那は、まるでだだをこねているような自分の言葉に恥ずかしくなった。
それでも、和那は悲しかった。
義彦に抱かれて嬉しかった自分が、そして義彦がそれを悔いていることが辛かったのだ。
苦しい気持ちを抱えた和那は、俯いて顔を上げられずにいた。
義彦はしばらく黙って和那を見ていた。
義彦には和那が不機嫌になる理由が分からずにいた。
しかし、和那が自分を好きだから故の態度であることは理解していた。
義彦は和那の隣に座り、和那の頬を両手で包むと、顎を上に向けさせて言った。
「こんなに顔を赤くして。また熱が出るよ?」
義彦は和那の唇に自分の唇を重ねると、そのまま和那を抱きしめた。
和那は抱きしめられたことと、口を塞がれたことで息苦しくなった。
しかしそれは幸福感の裏返しでもあった。
義彦の唇が、肌から伝わる体温が心地よかった。
義彦はしばらくそうしていたが、ふいに唇を離すと、和那の耳元で低く囁いた。
「君を抱いたことは謝らない。和那が好きだから、俺はまた君を抱く。
けど、もう無理に押し倒したりしない。
それに・・・今更だけど、俺は和那が高校を卒業してから、そうしたい。
君を大事にしたい」
義彦の言葉は和那の身体の奥を刺激した。
義彦のたった一言で、和那は嬉しかったり悲しかったりする。
それが和那には嬉しくも、不思議にも感じた。
ゆっくりと身体を離した義彦は、和那の顔を見ながら、普段の優しい口調で言った。
「今日は病院の面会時間があるからここまで」
和那は少し照れながら、無言で頷いた。
二人はソファを降りると、ダイニングテーブルに向かい合わせで座った。
精神的に満ち足りた和那は、義彦が入れたコーヒーを一口飲んだら自分でも意外なほど落ち着いた。
和那は義彦をまっすぐ見ながら冷静に尋ねた。
「間宮さん・・・香さんや聖義さんには特別な力があるんですか?」
すると義彦は意外なほど淡々と応えた。
「ああ。俺を含めて間宮家の血縁者にはチカラと称する特別な能力がある。
チカラの種類は人によって違うけれど」
「義彦さんにはどんな?」
和那の問いに、義彦はチカラで返した。
義彦は和那のために出したアイスクリームの容器とスプーンを、手に触れずに宙に浮かせて、和那の手元に置いた。
和那は黙ってその様子を見ていた。
「俺は物に触れずに動かすことができる。海がマンションから飛び降りたとき、俺は落ちていく海の身体を受け止めるために自分の身体を飛ばした。
下で聖義が待っていたけどね」
和那は心の準備をしていたので驚かなかった。
義彦は続けて言った。
「俺のチカラは本来、間宮と同じ流れを組む上宮という家系に伝わる能力だ。間宮家の家系は将来の動向を読むことができて、これらのチカラは男系だけが発現できる。聖義は両方の血をひいているから、両方のチカラを持っている。間宮の家が大企業なのは、家督を継ぐ者が未来を視ることができるからだ。そして香ちゃんや海には、人の気持ちを読むチカラがある。これは元々下宮という家に伝わる能力で、女系だけがチカラを使える。でもチカラにも個人差があって、海と香ちゃんで使えるものと使えない能力がある。
特に海は身近な人間にチカラを使わないから、気がつかなかったかもしれない」
「海ちゃんはカンが鋭いとは思っていました。でも間宮さんは・・・」
和那は自分の中に感じた香の気配を、義彦にどう説明してよいのか分からなかった。
しかし義彦は、和那の言いたいことを理解していた。
「香ちゃんの気配を感じた?」
和那は黙って頷いた。
「和那の鞄に入っていた紅茶はおそらく、香ちゃんが和那を操って入れたのだろう。
俺は下宮のチカラをあまり理解していなかった。
人の考えを読むことは知っていたけど、人を操ることができるとは思っていなかった」
義彦は和那を見ながら言った。
「香ちゃんが倒れたことと、和那を操っていたことは関係があるかもしれない。
だから彼女の様子を見てこようと思う」
和那はしばらくアイスを眺めていたが、思い切ったように言った。
「私も、一緒に病院へ行っていいですか?」
和那の言葉に、義彦は難しい顔をした。
「香ちゃんの精神状態によっては会うことができないかもしれないけど、それでよければ連れて行くよ。
それと、間宮家の人達にはチカラの事を尋ねないでくれる?
チカラの事は他言しないきまりだから」
和那は黙って頷いた。
二人はしばし沈黙していたが、唐突に義彦は言った。
「俺が、怖い?」
和那は首を横に振って否定した。
義彦の能力には驚いたが、それを受け入れられるだけの愛情が和那にはあった。
義彦は軽く笑った。
「俺の親父は間宮の中でも突出して高い能力を持っていた。
それに頭も良かったから、割と何でも簡単にこなしていた。
でも俺は親父のように先を読む能力はなかったから、医者になるのには人並みに苦労した。
だから和那が思うほど、すごい人間じゃないよ」
義彦は、自分の気持ちを人に初めて告白した。
すると和那はきっぱりと言った。
「もし義彦さんに義貴おじさんと同じチカラがあったら、私たちに勉強をあんなにうまく教えられないと思う」
義彦は驚いて声を出せかった。
和那が自分をそんな風に言うとは思っていなかったのだ。
「義彦さんは問題のどこが難しいのか、ちゃんと分かって教えてくれる。
すらすらできる人なら、難しいところなんてわからない。
義彦さんは頑張って努力して勉強したから分かる。
すごいって思う。だから私・・・義彦さんが好き」
和那が義彦とつきあい始めて、はじめて好きだと告白した。
和那は照れたように笑いながら続けて言った。
「雄大だって義彦さんが好きです。
あの子は穏やかに見えるけど人嫌いだから、勉強を教えてなんて言うのは、よほど義彦さんを尊敬していると思う。
雄大は私よりも観察力があるから、義彦さんのことを分かっている」
義彦は冷静ゆえに人から冷たいと思われることが多かったので、二人の気持ちが嬉しかった。
義彦は呟くように言った。
「それは光栄だな」
「母さんもご機嫌なの。私の数学の点数が高校にあがって以来の最高点だったから。
義彦さんのおかげだって。今までが悪すぎただけかもしれないけれど」
和那はいたずらっ子のように笑った。
そしてふと真顔になると義彦に言った。
「私は義彦さんが超能力者でも宇宙人でも驚かない。
だから、もう私に隠しごとをしないでください」
和那の真剣な表情に、義彦は何も返せなくなった。
しばらく二人は沈黙していたが、掛け時計を見た義彦は言った。
「そろそろ行こうか」
和那は黙って頷くと、自分の使ったカップを持って席を立った。
和那はカップを洗うつもりで台所へ行こうとしたが、義彦に優しく制された。
不思議に思った和那は義彦を見上げた。
義彦は今まで見たことがないほど切ない表情で和那を見ていた。
和那は義彦に見つめられて身体を硬直させた。
義彦は和那からカップを受け取ると、それをテーブルに置いて和那を抱き竦めた。
義彦には和那の言葉の一つ一つが呆れるほどに嬉しくて仕方がなかった。
独りでいたら泣けてくるほどにこみあげてくる思いを、和那を抱きしめる腕の力に込めているような気がした。
--もう、隠さなくていい。
たったそれだけで、義彦の気持ちが軽くなった気がした。
義彦は和那の耳元で、呟いた。
「ありがとう」
照れた和那は義彦の背中に手を回すと、黙って義彦の胸に顔を埋めた。
和那は義彦が、ようやく自分を受け入れてくれた気がして嬉しかった。




