三 – 10
和那から少し離れたところに、海が立っていた。
海は香が和那から離れたのを見届けた後で路地に入ると、兄に電話をかけた。
「お兄ちゃん、和那ちゃんを見ているだけで良いの?」
義彦は和那と別れた後、海に電話をして和那の様子を見るように頼んでいた。海は和那のいる場所をチカラで読むことができ、香に悟られずに和那の後をつけることができたからだ。
義彦は海の負担になることは理解していたが、和那が香に操られることを何よりも心配していた。
今の香ならば、和那を操って男をホテルに連れ込みかねなかった。
義彦は電話口で応えた。
「ああ」
「香ちゃんがどうして和那ちゃんにチカラを使うのかわからないけれど・・・その前にあの子、好きでもない男の子となんて、止めさせないと」
義彦は少し考えてから言った。
「香ちゃんは寂しいのだと思う。メンタルヘルスは俺の専門じゃないし、本人を診ていないからわからないけど、ある種の依存症かもしれない」
「そう・・・」
義彦は妹を気遣うように言った。
「彼女が家の方に向かっていたら、海も帰っていい」
「うん。本当は和那ちゃんに会いたいのだけど・・・」
海はまだ精神的に弱っていた。
和那と会った途端、一度は死のうとした自分を思い出しそうで怖くなっていた。海の気持ちを察した義彦は、静かに言った。
「無理しなくていい。辛い時期にこんなことを頼んで悪かった」
海は努めて明るく言った。
「私は大丈夫。それより和那ちゃんを大事にしてね」
義彦はぽつりと言った。
「ああ」
海が電話を切った直後、背後で声がした。
「海ちゃん?」
海が驚いて振り向くと、和那が立っていた。
和那は駅に戻ろうとしたとき、電話で話をしている女性の声に聞き覚えがあって立ち止まり、海の存在に気がついた。
和那には、海がこのあたりに用事があるように思えなかった。
そして電話で話をしていた海の最後の言葉から、海の電話の相手が誰なのか悟っていた。
海がとっさに言葉を出せずにいると、和那は途惑いつつも言った。
「海ちゃん」
和那が海に会ったのは、海が自殺未遂をして以来だった。
とっさに逃げようとした海の手を、和那はふいに掴んだ。
「待って、海ちゃん」
和那に触れられてしまった海は、意識しなくても気持ちを読んでしまうので怖かった。
しかし和那の手を振りほどくわけにもいかず、海は身体を硬直させた。
すると手を通じて和那の体温と、和那の気持ちが伝わってきた。
--よかった。海ちゃん、元気そう。
和那の想いは、海の胸の中に素直に入っていった。
海は他人の気持ちを読んでしまい、傷ついた経験が何度もあった。
海はその感覚を味わうたびに、人を避けるようになっていた。
精神的に弱っている海にとって、和那の気持ちは何よりも貴重なものだった。海は和那を振り返ると、嬉しさのあまりに泣きそうになりながら口を開いた。
「和那ちゃんにずっと・・謝るつもりだったの。でも言い出せなくて」
海の言葉に、和那は首を横に振った。
「ううん。海ちゃんが元気なら良いの。私も海ちゃんに会いたかったけど・・」
和那は言いかけて口を閉じた。
--聖義さんとキスをしたことが海ちゃんに知られたら・・・。
和那は海から手を離すと、視線を逸らして俯いた。
自分の意志ではなかったとはいえ、従姉の恋人とキスをしたことは和那にとって後ろめたかった。
和那の気持ちが、海には嬉しかった。
海は躊躇わず言った。
「聖義が和那ちゃんに何をしたか、聖義から聞いた」
海の言葉に驚いた和那は海を見た。
海の口調は穏やかだった。
「和那ちゃんを傷つけて・・・ごめんね」
海は和那に会うまで、和那に会うのが怖かった。
どうして自殺をしようとしたのか、マンションから飛び降りたのになぜ助かったのか、説明できないからだ。
しかし和那に会った今は、とても穏やかな気持ちになっていた。
和那と海は近くの喫茶店に入った。
シンプルな内装のカフェで、水色のシェードに遮られて穏やかな光が降り注ぐ店内は、明るく輝いているようだった。
普段の二人なら、賑やかに話をしながらケーキを選んでいたはずだった。
しかし今は、アイスコーヒーを目の前にしながら黙っていた。
和那はぼんやりと海を見ていた。
入院していたときの海は痩せて表情も暗かったが、今は少しふくよかになり、昔からの優しい印象に戻っていた。
最初に口を開いたのは和那の方だった。
「聖義さんといて・・・・楽しい?」
和那の問いに海は少し笑った。
「うん。ああ見えても、聖義は優しいの」
きっぱりと返事をした海の表情は明るかった。
「よかった」
「和那ちゃんは?兄が家庭教師をしているって聞いたけど?」
海の問いに和那は無邪気に答えた。
「そう。義彦さんは教えるのが上手で。
今回のテストの数学は少しだけ自信があるよ」
海は優しく微笑んで尋ねた。
「兄のどこが好き?」
「えっ?」
「昔から好きだったよね?」
海の突然の質問に、和那は少しの間考えていたが、思い立ったように言った。
「もしかすると海ちゃんを傷つけちゃうかもしれないけど・・・」
「構わない。教えて?」
海はそう言うと穏やかに微笑みかけた。
和那は少し迷いながら言った。
「昔、お互いの家族同士でよく遊びに行ったりしたじゃない?
その時、義彦さんは私たちとよく遊んでくれて・・・」
「優しいお兄ちゃんって?」
海が微笑んで尋ねると、和那は首を横に振ると神妙な顔で言った。
「それは・・義彦さんが海ちゃんを母と話をさせるためだったのかな、って思ったの。私たちはまだ小さかったから、母さんと海ちゃんが仲良くしていたら焼きもちをやくかもしれない。だから、義彦さんは私たちに気づかれないように一生懸命遊んでくれたと思う。
だって思春期の男の人が、八歳も年下の子供と遊ぶって、大変だと思う」
和那の言葉に海は驚いた。
そう言われれば、海は初めて生理になったことも、ブラを買うか悩んだ時も、陽菜に相談していた。
海の父は医者だったが、そこまでオープンに話をできなかった。
海は動揺した気持ちのままで口にした。
「和那ちゃんの考え過ぎだよ。兄は面倒見がいいの」
「ううん。父さんも言っていた。
義貴おじさんも義彦さんも、できるだけ海ちゃんを母さんと話をさせる機会を作っていたって。
女性にだからできる相談事もあるだろうからって。
それを父さんから聞いたのは最近のことだけど」
海は、兄が自分にそれほど気を遣っていたことを知らなかった。
和那は幸せそうな表情で海に言った。
「義彦さんは海ちゃんのことを本当に大事に思っている。
そんな風に家族を大事にできる人って、すごく素敵だと思う」
「・・・家族・・・」
海は兄が自分を大事に思っていることは分かっていた。
しかし和那に言われて、海は兄に愛されていたことを実感できた。
そして幼い和那が自分以上に兄の愛情を感じ取っていたことに、海は驚いていた。
「和那ちゃんは、大人だね」
海は言ったが、最後は涙で言葉にならなかった。
「海ちゃん・・・大丈夫?」
和那は泣き出した海を見て心配になった。
海は笑いながら涙をこぼした。
「大丈夫。嬉しいの・・・本当に」
和那は心配そうに海を見ていた。
海は自分が和那といることで、癒やされていると感じた。
会うまでは和那が怖かったが、会ってしまった今は一緒にいて心地が良かった。人の気持ちを読むチカラを持つことは、時にしてつらいこともある。
だから海は人を避ける傾向もあった。
しかし和那の前では気負わずに、自然な自分でいられる気がした。
和那を見て、海ははっきりと認識した。
--お兄ちゃんがどうして和那ちゃんを選んだか、分かった。和那ちゃんは私たちをそのまま受け入れてくれる。
涙を止めた海を見て少し安堵した和那は、少し暗い表情で言った。
「でも義彦さん、二人でいてもよそよそしくて・・私が子供だからなのかな?」
和那もさすがに海の前で『義彦さんが自分を抱いてくれない』とは言えなかった。
しかし海は和那の気持ちを読んでいた。
和那はさらに不安げな表情で言った。
「それに、さっき間宮さんに会った。間宮さんは私の鞄に紅茶が入っていることを知っていた。義彦さんからもらったって。義彦さんにも、間宮さんにも、私に分からない何かがあるような気がして・・・」
和那は不安そうに海を見た。
その瞳は海に、二人のチカラを教えて欲しいと言っていた。
海は少し考えてから言った。
「そう、兄には特別な能力がある。
でもそれは、兄から和那ちゃんに言った方がいいと思う。
隠すつもりはないと思うから、少し待ってくれる?」
海の言葉は曖昧だったが、義彦に特別な能力があることを肯定されたことで、かえって和那の気持ちは落ち着いた。
そして海は穏やかに、しかし真剣に言った。
「和那ちゃん、お願い。兄を信じて。兄のそばにいて」
和那は少し照れくさそうに、しかしはっきりと頷いた。
「うん」
海は和那の仕草が可愛くて、嬉しくなった。




