三 – 9
和那は息苦しくなって目を開けた。
「ふぐぁー」
和那は声をあげて飛び起きると、義彦の手が目の前にあった。
義彦が寝ている和那を起こそうと、運転席から身を乗り出して鼻をつまんでいたのだ。
義彦は和那がすぐに目を覚ますか、口で呼吸をすると思っていたのだが、そのままでいたことに驚き、そしてその後の挙動がおかしくて笑っていた。
義彦は笑いながら言った。
「ちゃんと鼻呼吸で寝ている。いいことだよ」
和那は義彦がそんないたずらをするとは思わなかったので、顔を紅潮させて怒った。
「ひどい!」
「ごめん、あんまり気持ちよさそうに寝ていたから」
そう言う義彦がなぜか嬉しそうに笑うのを見て、和那は喜んでいいのか怒っていいのか、複雑な気持ちになった。
和那は車に乗ってからの記憶がなかったので、かなり早い段階で眠ってしまったのだと思った。
義彦はこれから仕事で、忙しい合間に自分と会ってくれたのに、呑気に寝てしまったことを和那は恥かしく思った。
「私こそ・・・寝てしまってごめんなさい。義彦さんはこれから仕事なのに」
すると義彦は笑いながら返した。
「いいよ。寝顔が見られたから」
--義彦さんの寝顔も、かわいかったよ。
和那はそう言おうとして、やめた。
義彦は笑っていたが、どこか不安そうな印象を受けたからだ。
義彦の車は駅のロータリーに停まっていた。
和那はシートベルトを外すと、義彦に言った。
「私、買い物をしてから家に帰ります」
そして車のドアを開けようとする和那に、義彦は言った。
「気をつけて。帰りは遅くならないように」
「はい。お仕事がんばってください」
和那は義彦に笑顔を返すと、車を降りて手を振った。
和那は雄大の誕生日プレゼントを買いに行った。
自分の誕生日でもあるのだが、二人でプレゼントの交換をするのが長年の習慣になっていた。
和那は裏通りにあった小さなセレクトショップで、ティッシュボックスケースを見つけて購入した。
気に入った物が見つかって嬉しかったが、和那は財布を出すときに、自分の鞄の中に買ってもいない紅茶が入っていたことに気がついた。
和那は紅茶の匂いが苦手なので自分では買わない。
義彦が買ったのだとしても、もらった記憶がなかった。
「なんでだろう?」
和那は不思議に思いながら店を出たところで、建物から出てくる人影に気がついた。
飲み屋も立ち並ぶ一角にあったブティックホテルから出てきたのは、香と教育実習に来ていた大学生だった。
和那も彼の授業を受けたが、彼に対してはまじめという印象しか残っていなかった。
二人は腕を組むこともなく淡々とした表情で歩いていた。
驚いた和那が二人を見ていると、香と目が合った。
和那にとって、香は挨拶をするほど知り合いでもないが、知らない間柄ではなかった。
香は和那に笑いかけると、そのまま歩いてきた。
「何か私に言いたい顔をしている」
勝ち気な表情の香に凄みを感じた和那は少し怖くなった。
そして、香と一緒にいた大学生は何事もなかったかのように二人の横を通り、表通りに消えていった。
「一緒にいたんじゃないの?」
そう尋ねた和那の声は少しかすれていた。
「偶然会ったの。もう用事は済んだから」
香は淡々と答えた。
「今の人、恋人?」
「ううん。セックスしただけ」
こともなげに言う香に和那は驚いた。
香は軽く笑いながら続けた。
「そんなに驚くこと?あなたもセックスしたじゃない。義彦さんと」
香の笑顔が和那には怖かった。
和那は無意識に後ずさりをしていて、気がつくと背中にビルの壁が当たった。
「あなたと一緒に、私も義彦さんを感じたの。すごく気持ちよかった・・・」
香はそう言って和那の前に立ちはだかると、和那の耳元でさらに言った。
「もっと欲しいのに、あれ以来、あなたに触らない。義彦さんはあなたの身体に魅力を感じなかったのかしら?」
義彦が香に話をしたとは思えなかったが、まるで見てきたかのような話しぶりに和那は呆然としていた。
香は和那に気持ちをぶつけるように、しかし淡々と言った。
「だから自分で体感しているの。でも全然感じない。
今の彼は大人だから、もう少しいいかと思ったけどな」
和那は香を見返して言った。
「誰でも良いわけがない」
香は少しむっとした表情で言い返した。
「義彦さんが特別だって言いたいの?」
「好きな人としないと、だめだよ」
「どうして?していることは同じじゃない。感情なんて関係ないわ」
香は吐息がかかるほど顔を和那に近づけた。
香が美しい分だけ凄みを増した。
香の身体から漂う石鹸の香りが、和那の動きを封じる魔法のようだった。
和那は香から目が離せなかった。
「橋本さんだって、したいでしょ?知っているわよ。
義彦さんとのセックスを思い出していることも」
香は和那の胸に触れた。
和那は身体が硬直して香の手を振り払えなかった。
香の妙になまめかしい手の動きが和那を怯えさせた。
「やめて・・・」
和那が動けずにいると、香は和那の耳元で囁いた。
「オトコの手の方がいい?」
香の言葉にかっとなった和那は、とっさに香を突き飛ばした。
香は少しよろけると、和那を見返した。
「そんなに義彦さんがいいの・・・まぁ、いいわ」
香は乱れた髪をかき上げながら呟くと、和那に向けて手を出した。
「鞄に紅茶が入っているでしょ?出して」
「えっ」
和那は言われるままに鞄を開けると、中から紅茶の缶を出した。
「それは、義彦さんが私にくれたの」
香はそう言って和那から紅茶を受け取ると、表通りに歩いていった。
和那は香の後ろ姿を呆然と見ていた。




