三 – 2
義彦の寝顔を間近で見ながら、和那は思っていた。
--義彦さんは睫毛が長い。
和那を抱いた後、和那に腕枕をしたまま眠っている義彦は、昨夜から今朝まで宿直だったという。
義彦は昼間に仮眠をとったと言っていたが、疲れているのだと和那は思った。何よりも、海の自殺未遂は和那よりも堪えているはずだった。
義彦の寝顔を見るのは初めてだった。
子供のように穏やかな表情で眠る義彦の顔を見て、和那は穏やかな気持ちになった。
子供の時からずっと大好きだった義彦を、こんなに近くで見られることが、和那には夢のようだった。
しかし和那は何気なく見た時計で夜の十時を過ぎているのを知り、いきなり現実に引き戻された。
橋本家の門限は九時で、特に陽菜は和那が遅く帰ることを極端に嫌がった。
このマンションから家までは、電車を使っても三十分以上はかかるのだ。
「まずい」
和那は義彦を起こさないようにベッドから降りると、自分の服を拾いリビングに向かった。
和那は膝が少し震えることと、腹部に感じる違和感に何となく照れた。
しかし、リビングに置いていた自分の鞄から、携帯を見て気分が一転した。
和那は慌てて着替えると、改めて携帯の着信履歴を見た。
自宅からの着信が十件を超えているのを見て、和那は青くなった。
そして和那は、自分の鞄に手紙が入っていることに気がついた。
封筒がやけに白いと思いながら、和那はゆっくり封を開いた。
『橋本和那様
いろいろありがとう。そしてごめんなさい。
私のことで一番傷つけてしまうのは、あなただと思います。
私の父は私の目の前で死にました。
それ以来、どうして私は父を助けられなかったのか、ずっと考え続けていました。子供が死んでから、余計に。
考えてもどうしようもない事だとわかっているけれど。
だからあなたも。あなたの前で死んだ私に同じ事を思うかもしれない。
でもどうか、ありのままを受け入れて下さい。
父の死は事故でしたが、私は私が選んだ事だから。どうか傷つかないで。
私のせいであなたの人生に影ができないことを願っています。
私は和那ちゃんが羨ましかった。
あなたのようになれたらいいと、ずっと思っていました。
和那ちゃんのことが大好きでした。あなたの家族も大好きでした。
陽菜さんのことも。大和さんも。雄大くんも。感謝しています。
そしてどうか、あなたは幸せでいてください。
兄をよろしくお願いします。
橋本海』
和那が家に着いたのは日付が変わる直前だった。
和那は静かに鍵を開けて暗い玄関に入った。
そしてチェーンをかけたところで玄関の電気が点いた。
「今、何時だと思っているの」
母親の声に和那が振り向くと、顔を紅潮させた陽菜が立っていた。
陽菜は娘を見下ろしながら言った。
「どこに行っていたの?何をしていたの?!どうして連絡しないの!!」
母の剣幕に観念した和那は、ひたすら母親に謝った。
「ごめんなさい。ちょっと話をしていたら遅くなって・・・」
「誰と話をしていたの?お友達だってご両親に怒られているわよ!
女の子がこんな遅くまで、外でふらふらしているなんて。
何かあったらどうするの!」
和那は母親に義彦と海に会っていることを告げずに出てきていた。
--黙っていれば義彦さんがとがめられることはない。
和那はそう思ってひたすら母親に謝った。
「ごめんなさい」
謝るだけで理由を言わない娘に、陽菜の怒りは頂点に達した。
「明日は外出禁止!」
陽菜はそう言い捨てると、陽菜は足音を立てながら二階の寝室に上がっていった。
和那は母親の剣幕に震えながら靴を脱いだ。
「母さん、まじでこわい」
しかし廊下を進むにつれ、海の手紙を思いだして震えが止まらなくなった。
家に着くまでは考えないようにしていたが、家に着いて安堵したのと同時に、どうしようもなく悲しい気持ちがこみ上げてきた。
--海ちゃん、手紙まで準備していたなんて。
和那は海が自殺を考えていたことも怖かったが、海が淡々と実行していたことが一番怖かった。
和那が目を閉じると、屋上でためらいもなく飛び降りた海の姿が瞼に映った。
「海ちゃん・・・」
和那は暗い自室で座り込むと、海の手紙を抱きしめて泣いた。
翌朝、陽菜は静かに和那の部屋に入った。
和那は熟睡するタイプなので、自分が部屋に入っても和那が起きないことを、陽菜は知っていた。
昨日の娘の態度に苛立っていた陽菜は、和那の携帯電話を没収するつもりで和那の鞄を開けて、海からの手紙に気がついた。
普段の陽菜であれば、娘宛の手紙を読むことはない。
しかし洗練された封筒の白さが、陽菜に嫌な予感をもたらした。
陽菜は半ば無意識に封筒から手紙を取り出して、読んだ。




