ヘルプミー、Aさん
大学生になって二年目の夏。ふと、嫌な気配を感じた。引っ越したばかりの部屋、始めたばかりの一人暮らし。アパートの壁は薄く、隣人が見ているテレビ番組が把握できるほどだが、そのせいで、真っ昼間には誰もいないことを強く感じてしまう部屋だった。
カツン、カツン。
ハイヒールの足音が響く。十の部屋が並ぶ廊下は、スニーカーで歩いても足音が隠せない。
カツン、カツン。
ゆっくりと、じわじわと。近づいて来る。エアコンが作動している音も、足音を掻き消してはくれない。足音は、一部屋ごとに足を止めて窺っているような間隔で響く。人間ではないと思った。生きている人間ではないと。
カツン、カツン。
私の部屋の前で、止まる。見られているような気がする。耳を塞ぐことも怖くて、息を殺した。ドアをじっと見つめる。ポスト付のドアでなくてよかった。冷えた風が、背筋を這い上がる。
カツン、カツン。
動き出した。助かった。きっと助かった。そう思ったが、それでも怖くて、溜め込んだ息を吐き出すことができなかった。
自分が呼吸をしていることを思い出したのは、隣人が帰ってきて鍵を開けている音によってだった。気がつけば二時間も過ぎていた。いつものようにテレビの音が聞こえ出して、ようやくほっと息を吐いた。
「お化けが出そうで怖い? だから泊めてほしいって?」
若干あきれたような声色で返した先輩に、こくこくと頷く。
あの真っ昼間の恐怖から数日が経った。今夜は隣人が留守なのだ。今朝、荷物を引く彼に遭遇して、旅行だと聞いた。甲子園に行くらしい。彼の部屋からテレビの音が聞こえないと、怖い。いつもと違う日は怖い。
「いくら何でも女の子にそれはないでしょーよ、君」
「友だちには振られました。もう先輩しか頼れないんです」
「お化けってもねえ……」
くちびるを尖らせて目を伏せる先輩は、その可憐さにも関わらず彼氏いない歴イコール年齢だという。私とは映画鑑賞サークルのメンバー同士で、先輩は特にホラー映画やオカルトごとが大好きである。彼氏ができない、いや作らないのは、そのあたりの趣味とは無関係であるらしい。
「出るなら、私がそっちに泊まりに行こうかな」
「……それでも、いいですけど、大丈夫ですか?」
「さあ? 私、見えないし。祓えたりもしないし」
そうではなくて、一応その年頃の男女であるので。先輩が全く気にしていないようなので、私も気にしないことにした。
「あ、泊まりに行ってもいいなら、もう一人連れていくよ。たぶんそれで大丈夫」
「何ですか、それ。寺生まれとかTさんとかですか?」
「いや、Aさんだよ」
先輩が言うには、そのAさんは先輩のバイト先の女性らしい。フリーターで、彼氏を切らしたことのない羨ましい人だとか。それ今関係ない。大層な美人というわけでもないが、すごくモテるらしい。写真嫌いで、写りがひどく悪いそうだ。目で見るのと別人レベルというと、余程のことだ。
「ええと、その、Aさんを呼べばどうなるんですか?」
「さあ? わかんないけど、心霊スポットに行くときは彼女を誘うんだ。すると幽霊も何も出ないんだけど、私は危険に遭遇したいわけじゃないし」
先輩は首を傾げて言った。お化けに出て欲しいのか欲しくないのか、よくわからないが、とりあえず私としては備えあれば憂いなしだ。そのAさんにもぜひ来てもらえるよう頼んだ。先輩はすぐにポチポチとメールを打ち(Aさんはガラケー勢らしい)、しばらくして了承の返事が来る。先輩いわく、Aさんは本当に困った時の頼みは断らない。
怖くて一人で帰宅できなかったので、大学から先輩の家に移動して、そこでAさんと合流した。Aさんは美人だった。
「こんにちは。はじめまして」
「あっ、はい、はじめまして、こんにちは。お世話になります」
緊張した私の言葉を聞いて、Aさんはふわっと笑う。
「こちらこそ、今夜はお世話になります」
どことなく上品さの漂うAさんが、お化けを退けられるのかどうか、やはりわからなかった。浮世離れした雰囲気が、もしかしたら、いいのかもしれない。
Aさんがお風呂に入ってから来たと聞いて、先輩がシャワーを浴びにいった。先輩が家族と住む豪邸の前でAさんと二人残され、話題に困る。無言。幸いに先輩は烏の行水だった。
我が家へ。
Aさんの発案で夕食は焼き肉になった。と言っても、Aさんが用意した肉と野菜をうちで焼くだけ。「後片付けと掃除はするから」と、Aさんは掃除道具も持ってきたらしい。荷物が多いと思ったら。
食後。
宣言通り、Aさんはキッチン掃除に精を出した。鼻唄を歌いながら。鼻唄のクオリティからして、Aさんはきっと歌もうまいに違いない。先輩はテレビを流し見しながらスマホでゲームをしている。Aさんのおかげで、キッチンが元よりきれいになった頃、明かりが揺らめいた。
「さて、と」
キッチンからリビングへ戻ってきたAさんが、荷物から何か取り出して小さなテーブルに並べ始める。ウイスキー、ブランデー、ウォッカ、ジン、ラム、その他小瓶のリキュール類。ポテチにさきいか、柿の種、チーズ。
どう見ても酒盛りの準備です。本当に、荷物が多いと思った。何これ、と、先輩を見ればポテチの袋を開けていて、Aさんを見ればウイスキーを開けていた。グラスとお皿は、うちにあるものを適当にAさんが出してくれたらしく、とくとくと注がれたウイスキーが私の前に差し出された。
「どうぞ」
「あ、はい、いただきます」
とは答えたものの、口をつけるどころか手を伸ばす勇気も湧かない。大学生らしくそれなりに飲み会もやったが、グラスいっぱいにウイスキーが注がれているのははじめて見た。ショットグラスではない。一合はある。水割りでもないし、氷すら浮いていない。
乾杯とも言わず、Aさんは自分のウイスキーを飲み干してしまった。いやこれショットグラスではないですよ。先輩はポテチを食べている。お酒を飲まない先輩の前にはお茶のペットボトルがあった。Aさんにお酒を注ぐべきかと思い至った時には、Aさんはすでにいくつかのお酒を混ぜてカクテルを作っていた。余計な手を出さない方がよさそうだ。ちびり、ちびりとグラスを傾けた。
カツン、カツン。
足音がしたような気がして、目を覚ました。夜で部屋は当然のように暗く、カーテンの外からほんのわずかに明るい光が差し込む。先輩はブランケットを蹴りつつ寝ていて、Aさんは。
「あ、ちょっ、ないわ」
Aさんは、暗がりの中、お酒を飲みながらゲームに熱中していた。ほっと息を吐いた。
「あれ? 起こした?」
「あ、いえ……何か、いつの間にか寝てたみたいで」
「あー。一杯目の途中で寝ちゃったんだよ。ごめんね、無理に飲ませなければよかったね」
「いえ……」
状況を理解する。理解というほどのこともなく、私は潰れ、先輩は寝て、Aさんだけが酒盛りの続きをしているのだろう。無理に飲まされてはいない。私は成人しているし、Aさんは悪くない。
カツン、カツン。
足音が、聞こえる。
「水飲む? 電気つける?」
カツン、カツン。
Aさん、しゃべらないで、静かにして。願うが、伝わるわけもない。Aさんがふいに、ドアの方を向いた。その手が、スマホ画面の明かりに浮かぶポテチの袋に伸びて、ポテチを一つつまむ。パリ、バキ。Aさんは指をペロリと舐め、グラスに手を伸ばした。流し込むように、琥珀色を飲む。
ドスッ、カッ。
あれ? と違和感を覚えた私の耳には、ハイヒールで猛ダッシュするような音が入ってきた。部屋の前まで来ていたはずの音は、どんどん遠ざかって行く。
Aさんを見た。
「うん? どうしたの?」
Aさんはスマホの画面に目を戻していた。かすかに聞こえるゲーム音楽。聞き覚えがある。私も、先輩に勧められて、最近始めたゲームだ。すでにゲームハードが買えるくらい課金してしまった。
「あ、いえ……」
何か、すごい。
それだけが頭に残った。
「ありがとうございました、先輩。先輩とAさんのおかげで、足音も無くなりました」
「あ、うん。えっ? 君、足音なんて言わなかったよね? 私まさかヤバイとこ首突っ込んでたの? うわ、Aさん呼んでてよかった……もう、やめてよね」
「そういえば、言わなかったような。すみませんでした」
先輩が何も考えていなかったことを理解してしまった。あと私が言ったお化けについて全く信じていなかったことも。オカルト好きだと思っていたが、もしかしたら実は違うのかもしれない。
Aさんが眼力でお化けを追い払った(と、私は思っている)夜以降、朝も昼も夜もあの足音を聞くことはなくなった。
隣人が甲子園から帰ってきて、またテレビの音が聞こえるようになった。ちょうど帰ってきたところの隣人に「あれ? 何かあった?」と訝しげに問われたので、平然と見えるように「追い払われたみたいです」と答えた。「安眠できそうだ」と呟いて家に入っていった隣人にも、あの足音が聞こえていたに違いない。
「ホラー映画や小説は好きだけど、当事者になりたいなんて思ったことないんだからね」
「はい。すみません」
くちびるを尖らせて目を伏せる先輩は、やはり可憐である。お化けを信じていないのではなく、怖いので信じないようにしていたらしい。
「あの、先輩」
「何?」
「何もないんですけど、よかったら、泊まりにきませんか?」
「……お化け出ない?」
「はい」
私がうなずくと、先輩は少しためらってから「それじゃあ……お泊まり、する」と頷いた。ほんのり頬と耳が赤いようだが、今日は暑いからだろう。うちでお腹を出して寝ていたせいで風邪を引いたわけではないと思いたい。
夏休みはまだまだこれからだ。ゲームハードと話題のソフトを買ったので、「先輩、この夏はゲームに魂を捧げましょう! 死ぬ気で!」と決意を熱く語れば、軽いグーで殴られた。なぜ。




