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天国と地獄

作者: 雨宮 怜哉

 人は死んだら、一体どうなるのだろう。

 退屈で何もする事のない平凡な時間の中で、そのように非現実的な事を考えるのはなかなかに刺激的だった。もっとも、死んだ後よりも自分のこれからの生き方の為に糧になるような事を考えればいいのに、と言われれば同意はする。こんな意味のない事に時間を費やしてるからこそ、これまでの人生において、僕はこれといった成功も無く、かといって大変な大失敗も無く平凡に過ごしてきたのだから。

 でも、それを考えている時間は僕にとっては至福の時で、大げさに言えば生きがいでもあったのだ。自分にとって何の生産性も無い時間だったと思ってはいなかった。

 僕が本当に死ぬ時までは。

 そう、僕はどうやら死んでしまったらしいのだ。

 自分では死んだ時の記憶は無いのだが、意識はあるのに実体を持たないこの感覚や、怖いくらい殺風景な周りの景色などを見ていれば、死んだと納得せざるを得ない。

 そもそも、僕の目の前にいるこの男が、僕が死んだとはっきり明言したのだから。

 いや、今の僕には目すら持ち合わせていないので、目の前という表現は少々諧謔的であろうか。自分が気付かないうちに死んでしまったというのに、随分と呑気な考えである。

 そう、僕は気が付いたらただここに存在していて、男に死んだと知らされただけ。他のことはまだ一切知らない。ただ、一つだけ分かったことは、生前に考えていた僕の考えは明らかに間違っていたという事だけだ。まさか意識が残るとは思いもしなかった。

「さて、随分と飲み込みの早い死者さんで私も助かりました。なかなか自分が死んだ事を受け入れてくれない人たちばかりでしたので、こちらも手間が省けます」

 男は業務口調で淡々と話す。だが、その中にも少し男の社交的な様子が見て取れる。それは男の人柄なのだろうか。いや、そもそも男が人なのかどうかもまだ分からない。

「そうだね。僕も生きている時から、死後についてはよく考えていたから、イメージしやすかったのかもしれない。それで、これから僕はどうなるのかな」

 僕はもう興味津々だった。もっとこの状況について詳しく知りたかった。

「驚いた。ここまで事が進めやすい死者さんは初めてですよ。一度死んだ事があるのかと疑いたくなるくらいです。と、まあ冗談はほどほどにして、結論から簡潔に申しますと、今から天国に行くか地獄に行くかの審査を行います。ここにあなたが生きている時にしてきた事、全てのデータがありますので、それを元にこちらで判断させて頂きます」

 そう言うと男は、手に持っているタブレットの様な薄型コンピュータを取り出した。

 先ほどの男の言葉をよく噛みしめる。男は、「天国」と「地獄」というフレーズを確かに口にした。天国と地獄は本当に存在したのだ。これには耐えきれず笑みが溢れてくる。

「それで、そこに僕の生きてきたデータが全て入っているのかい?」

「はい、そうです。出身地、学歴、生涯で付き合った恋人の人数、浮気した数、生まれてから通算何回トイレで用を足したか、歩きタバコをした回数、さらには小学五年生という多感な時期に初恋の相手のリコーダーを放課後こっそり舐めて」

「もう良い、分かった、十分だ、その辺にしておけ」

 危うく人生最大の隠し事を暴露されかけたところで慌てて制止した。

「と、まあこんな具合にあなたの人生の全てがここにデータとして詰まっている訳ですよ」

 男は相変わらずのにこやかな表情で、僕の焦りを楽しんでいるかのように言う。

「その事だけは墓場まで持っていくつもりだったのに……」

「まあ、墓場までは持って来られていますけどね」

「あ、それもそうだな」

 妙に納得してしまった。

「それで、そのデータを元に天国か地獄に行くか決めるって言ってたけど、具体的には何で決めるんだ? まさか、小学生の頃にリコーダーをどうこうしたってだけで地獄行きとかにはならないよな?」

「安心してください。そんな若気の至りで済まされるような事で、地獄行きになんてならないですよ。地獄は想像している以上に恐ろしいところですからね」

 男の微動だにしない爽やかな表情でそれを言われると、異様に恐怖心が込み上げてくる。

「ほほう……と、言うと?」

「そうですね、これ以上は企業秘密、ですかね。地獄の恐ろしさは、行った者にしか感じることが出来ないことになっていますので」

 ますます恐ろしさに拍車がかかる。

「なる……ほど。それで、天国か地獄か決定する条件っていうのは?」

「それは、ですね」

 僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「生きている間に、人を何人殺してしまったかによって決まります」

 強張っていた肩から一気に力が抜けた気がした。

「なんだ、そんなに酷い悪事のレベルか。何人殺したも何も、僕は一人も殺してなんて無いから、地獄にお世話になることは無さそうだよ」

「それなら私も手間が省けますね。では、一通り確認いたします」

 そう言うと、男はタブレットの操作に専念し始めた。

 僕はと言うと、先ほどまでの恐怖心などはもう微塵も残っておらず、これからの展開に期待を募らせていた。

 生きている間は、ただ生きるという事が当たり前で、全うすべき義務で、死んだ後に訪れる幸せがあるなんて考えもしなかった。死んだらどうなってしまうのか、という疑問は抱いていたものの、それが幸せに満ち溢れた想像になることは無かったのだ。

 しかし、天国というくらいなら、そこはさぞかし幸せに満ち溢れた場所に違いない。

 僕は胸が躍るのを隠せなかった。

「ところで、人を何人殺してしまったか、とか言ってたけど、何人殺していたら地獄行きになるんだい?」

 未だ操作を続けている男に問いかける。

「そうですね、殺してしまった人の年齢層にもよりますが、だいたい四、五人といったところでしょうか」

「テロとか起こした奴は一発で地獄行きなんだろうな」

 天国に地獄の様子を見られるモニターでもあれば良いのに、と思う。少々性格がねじ曲がった発想かもしれないが、他人の不幸ほど見てて面白いものは無い。

 全く、これが天国へ行く者の発想だろうか。自嘲気味に笑ってしまう。仏の様な善人で無くとも、天国には行けてしまうのだ。人の命さえ殺めていなければ、いとも簡単に。

「さて、結果が出ました。間違いが無いか、今から当時の映像を見て一緒に確認をお願いいたします」

 男は確認が終わった様で、タブレットから顔を上げると、何も無い空中を見つめた。

 すると、男の見つめた先にスクリーンの様な光がおぼろげに浮かび上がる。

 僕は、なんだか時間の流れに置いてきぼりになった様な感覚がした。理由は分かっている。当時の映像、一緒に確認。この響きが妙におかしく感じたからだ。

「ちょっと待て。確認も何も、僕は人を殺していないんだから、見る映像なんて無いだろう?」

 奇妙な焦りを覚えて、囃し立てる様に男に問いかける。

 すると男は、その質問には答えることなく、こう言った。

「——一人目」

 背中から脇にかけて、冷たい何かが通って行く気がした。

「一人目って、何だ。僕は人なんて一人も殺してないぞ!」

 意味が分からなくなって興奮する僕にはお構いなしに、モニターに映像が流れ出す。

 映し出されたのは、懐かしき高校時代の制服に身を包んだ僕の姿だった。

 見る限りでは、朝の風景だろう。見覚えのある通学路。風を切る様に走る自転車のスピード。いつの日だかは分からないが、明らかに、高校へ登校途中の朝の様子だった。

「おい、この映像に何があるって言うんだよ。至って普通の登校姿だろ。人を殺している要素なんてどこにも無いじゃないか」

「まあ、そう早まらずに、続きをご覧下さい」

 意味が分からない。よく見たところで、何ら変わらない高校時代のいつもの朝でしかない。高校時代の朝にそんな人が一人死ぬなんてハプニングを起こした覚えもない。僕は一体何を見せられているんだ。

 映像の中の僕は、一定のスピードを緩めることなく、爽快に風を切っていた。

 そこで、少しだけ異変に気付いた。

 僕の顔が、だいぶ歪んでいる様に見えたのだ。

 いや、何も自分の顔面が思っていた以上に不細工だったという事を言いたい訳ではない。こういう顔だっていうことは生きている時から重々承知していた。まあ、思っていたよりも酷い顔で落ち込んだのは事実なのだが。

 よく見ると、うっすらと汗も浮かんでいる。着ている制服から見ても、夏では無さそうなのだが。やはり、さっき気付いた顔の変化から考えても、きっとそういう事なのだろう。

 ふと、映像に時計が映った。いつも登校中に時間を確認するために使っていた公園の時計だ。この時計の針が七時三十五分を示していると、普段通りに間に合う事になる。

 しかし、映像に映った時計が示していたのは、七時五十五分。

 僕の予想は合っていたみたいだ。きっとこの日の僕は、寝坊でもして遅刻寸前だったのだろう。この時間では、少しでも気を抜いたら遅刻だ。顔に苦悶の表情を浮かべ、汗がにじみ出ているのはそのためだ。

 しかし、スピードこそ出ているものの、人と衝突した様な覚えはないし、そもそも僕は高校生活を通して一度も病院に行ったことがなかった。至って健康で、大した怪我もしたことがなかったのだ。人を殺めてしまう様な出来事があった様には思えない。

 映像では、相も変わらずの猛スピードで僕は走行していた。

 すると、僕が当時「魔の交差点」と呼んでいた、一度ハマるとなかなか抜け出せないスクランブル交差点がちょうど僕が通る前に赤に変わってしまっていた。このままではどう考えても間に合わない。

 駄目だ。高校の頃の記憶のこんな日常の小さな出来事など忘れてしまっている。このあと結局間に合ったのだろうか。高校時代に遅刻届を書いた記憶は無いような気がするのだが。

 しかし、信号は赤になったというのに、僕の自転車は一向にスピードを緩める気配はない。何となく予想はできた。自動車がアクセルを踏み込む間の数秒間の時間を狙って、無理矢理にでもこの交差点を通ろうとしているのだろう。遅刻するよりも、少しだけ乗車しているドライバーから非難の目を向けられる方がまだマシだと判断している。確かこういう事はしていた覚えが僕にもある。これはその時のパターンであろう。

 案の定、焦りを全身で表現している僕は、同じく渡れないで横断歩道前で立っていた歩行者の女性を自転車のベルを鳴らして半ば強引に立ち退かせ、自動車の発車するギリギリのタイミングで横断歩道を渡り終えた。

 その後、後ろから自動車の非難の音がけたましく鳴っていたが、僕は気にする事なく高校を急いでいた。顔は少しだけ誇らしげで、悪びれた気持ちは微塵も無さそうだ。きっと、作戦が成功した、というような勝ち誇った気持ちなのだろう。

 結果として、僕は本当にギリギリの時間に高校に到着し、遅刻する事なく無事授業に間に合った。

 そこで、映像は終了した。

「それで、この映像のどこで僕は人を殺してるって言うんだよ」

 確かに少し悪い事はしたかもしれない。人を殺していたら地獄行きという条件を最初に提示されていなければ、この位の悪事で地獄に落ちるかもしれない、と思っていただろう。だが、この程度の悪事であれば地獄に落ちる事はないはずだ。人の命は奪っていない。少しだけ迷惑をかけてしまっただけだ。僕は今なぜこの映像を見させられたのか意味が分からない。

「そうですね、少しこの映像では分かりにくいかもしれません。それでは、あなたを起点とした映像から、少しだけずらして見て見ましょう」

 男はそう言うと、あの交差点のシーンまで遡り、僕を軸とした映像から、交差点だけを映して固定した映像に切り替えた。

 先ほどと同じように信号は案の定僕が渡る前に赤になり、僕は慌てて渡る。

 角度が変わっても、視点が変わってもそれは変わることがなかった。

 しかし、次の瞬間だった。

 少し目をそらしてしまっていた隙に、歩行者の女性が車に轢かれていた。

 けたましい車のサイレンが鳴り響き、辺りは騒然としている。

 あの時僕が聞いたサイレンは、僕を非難するものではなく、この事故のために発せられたものだったのだ。

 その後、警察や救急車が訪れ、女性は救急車に運ばれていった。

 映像は、そこで終了した。

「ちなみに、この後女性は病院ですぐに息を引き取り、ここにやってきました」

 男は、ニコニコと笑みを浮かべて言う。

「いや、待てよ。僕は何も関係ないだろう。僕が通った後にこの女性が勝手に轢かれただけだ。僕が何か関係しているとは思えない。映像を見てもそうだろう。あのサイレンも僕に向けられたものではなく、女の勝手な行動に対して向けられたものだった。悪いのは僕じゃなくてあの女性自身だろう? それとも僕が殺したと言いたいのか? 馬鹿馬鹿しい。僕は何も関係していない」

 僕は少なからず動揺していた。この映像に「死」という要素が混じってしまったからだ。もしかしたら僕のせいなのだろうか。そんな想像までしてしまう。そしてそれを否定するためにあれこれと頭の中で言い訳が始まる。僕の頭はもうパニック寸前だった。

「本当にそうでしょうか」

 表情を寸分たりとも変えずに男は言う。

「そうだよ。当たり前じゃないか。どう見たら僕が殺したって言うんだよ!」

「そうですね、少し女性に視点を移して見てみましょうか、またあの映像を」

「え、また、見るのか……?」

「はい。それとも、自信が無いですか?」

「馬鹿を言うな。早く映像を映せ」

 男の指示で再び映像が動き出す。

 歩行者の女が横断歩道に到達する少し前からの映像だった。

 女は横断歩道を目指して歩いていく。ただ、それだけの映像。

 しかし、どこか違和感を感じるところばかりだった。

 女は、なぜか杖を持っていた。年齢はそこまで歳を経ていない。大体二十代後半といったところだろう。杖を持つほど腰が悪いようにも思えない。背筋はだいぶしっかりとしている。しかし、杖を前に突き出し、前方を確認するかのごとく、恐る恐る歩いているのだ。側から見れば随分と奇妙な光景だった。

 そして、必ずと言っていいほど、黄色の点字ブロックの上を歩いていた。狙ってでも無いとこうも着実に点字ブロックの上は歩けない。一つ一つ丁寧に、足で踏み定めるかのごとく、杖と合わせながら進んでいる。

 僕は、何となく、分かってしまった。

「もう、良い。映像を止めてくれ」

 見るに耐えられなくなって、男に促す。

「いえ、でもまだ肝心の場面まで流れていませんので」

 しかし、男は映像を止める様子は全く無い。

「大丈夫だ。もう分かってるから。この後の展開なんて予想は出来るから!」

「駄目です。言ったでしょう。一緒に確認をお願いいたします、と」

「嫌だ。見たくない。もうやめてくれよ。止めろって言ってるだろ!」

「駄目です。しっかりと確認していただくルールですので」

「ふざけるんじゃねえよ」

 映像は、こうしている間にも進んでいく。

 とうとう、女は横断歩道に差し掛かった。その瞬間に信号は赤になる。

 女は一度確かめるかのように周囲に杖をぐるりと回し、耳を済ませている。

 そこに、僕が後ろから猛スピードでやって来た。

 女性は突然のベルの音に驚き、ベルがした方とは逆の方向に飛び退いた。そして、何か納得した様な顔をしたかと思うと、そのまま横断歩道を前進し始めた。

 突如動き出した車に、飛ばされ、下敷きにされ。

 そのまま、横断歩道は大パニックに包まれた。

 映像は、やっと終了した。

「いかがでしたか?」

 男は満足気に僕に問いかける。

「これは、僕が殺したってことになるのか。殺したのは僕じゃなくて、車の運転手の方だろう? 僕は女を殺してない。確かに、原因は作ってしまったのかもしれない。でも、それは罪には問われない事だろう。警察も轢いた方にしか焦点を当てないだろう。僕は殺したことにはならない。そうじゃないのか」

「死後の常識と、生きていた頃の常識を同じにしてもらっては困ります。最初は物分かりの良い死者さんだと思ったのですが、やはり人間なんてみんな一緒ですね。誰もかれもこう言うのです。良いですか? あなたが悪い事をしたのは事実です。それによって女性は死んでしまいました。自動車の運転手は何か悪い事をしましたか? 信号はしっかり守りました。飛び出してきた女性を運悪く轢いてしまっただけです。女性が何か悪い事をしましたか? 目が見えないのは彼女のせいではありません。音を聞いて、周りの状況を判断して、迷惑かけない様に必死に生きています。それなのに、あなたの軽率な行動によって、この事故は起こってしまいました。あなたが自分の寝坊を受け止めて、足掻かずに、遅刻して反省していれば、この女性は死ぬことなんてなかった。殺したのはあなたも同然です。これでもまだ言い訳を重ねるつもりですか?」

 僕はそれでも尚、納得することが出来なかった。認められなかったのだ。自分のした悪事が、本当に悪いことには思えなかったから。この程度は許されるだろう、とまだ心の中で思っているから。

 しかし、どこかで気持ちに折り合いを付けるしかなかった。

「分かったよ。もう、それで良い。僕が殺したってことで、納得するよ」

「ご確認いただいた上にご納得いただき、こちらとしても嬉しい限りです」

「でも、言ってたよな。確か、一人殺しただけでは地獄行きにはならないんだろう?

 五人も殺していなければ、地獄にはいかなくて良いはずだ。そうだろう?」

「はい、その通りです。安心してください。これだけのことではまだ地獄にはいかなくて済みます。地獄は相当に恐ろしいところですからね」

 そうだ。大丈夫だ。これ以上はもう僕は人を殺してなんかない。酷い悪事も起こしていないはずだ。大丈夫。大丈夫。大丈夫。

「大丈夫、だよな」

「それでは、二人目」

 心臓が跳ねるという感覚を、僕は心臓の鼓動が止まってから初めて分かった気がした。

「どういう事だよ。二人目ってどういう事だよ。僕は殺してない! 僕はもう人なんて殺してないぞ!」

「まあ、とりあえずこの映像をご覧ください」

 男がそう言うと、再びスクリーン上に映像が映し出される。

 映し出されたのは、僕が大学時代に一人暮らしで住んでいたマンションだった。

 映像の中の僕は、自分の部屋の鍵を閉め、どこかへ出掛ける様だった。いつの事だったかは全く思い出せない。

 僕はただ、懐かしいな、という気持ちで呑気に見ていた。

 もしかすると、恐怖を押し殺していただけなのかもしれないが。

 僕が住んでいたのは、学生では珍しい、というよりかは恐らく僕くらいしかいないだろうが、少々豪華な高層マンションだった。小さい頃からあまり不自由せずに暮らしていたために、こういった贅沢には抜かりなかった。親は頼るに越したことはない。

 僕の部屋は二十二階。少しだけ出るのと帰るのが億劫だったが、眺めは抜群に良かった。

 映像の中では、特に変わった様子もなく、僕は部屋を出て、エレベーターに向かっていた。

 そしてそのままエレベーターに乗り、何事も無かったかの様にマンションを出ていった。

 そこで映像は終了した。

「え、今ので終わりかい?」

「はい、お気付きになりませんでしたか?」

「全く分からないよ。僕はただ普通に日常を過ごしていただけじゃないか」

「そうですね。あなたにとっては何気ない出来事だったのかもしれません。では、映像の最後の部分をもう一度見てみましょうか」

 男がそう言うと、映像は僕がエレベーターに乗るところから始まった。

 僕はつまらなそうにエレベーターの中でスマホをいじっていた。

 そして、エレベーターから降りる瞬間。恐らく、きっと何か悪事を働いたつもりは僕にも無かったのだと思う。ちょっとした思い付き。後の事など何も考えていない素振りだった。

 僕は、エレベーターの階のボタンを全て押してからエレベーターを出ていた。

 そうすれば僕が出た後に、恐らく全ての階層ごとに止まるはずだ。いや、きっとこの時の僕はそんなことを考えているわけではなく、ただ単純にそこにボタンが沢山あったから押してみただけなのだろう。悪びれた様子など全く無かった。

「確かに、迷惑な行為をしたとは思うよ。でも、これのどこが人を殺した事になるんだよ。マンションにはいざとなれば階段もあるだろう? エレベーターが少しくらい来なくたって、人は死なないだろう」

「本当にそう思いますか?」

 男のニコニコとした表情に僕は一瞬ひるんだ。

「そうだろ。そうじゃないのかよ」

「それは、この後の映像を見てもらえば分かるかと思います。しばしご覧下さい」

 スクリーンには再び映像が映し出される。

 僕の住んでいたマンションのどこかの部屋の様だ。内装的に僕の部屋ではない。

 そこには、三人の親子が幸せそうに暮らしていた。

 住んでいる三人の顔を見て、ピンと来た。この親子は、確か隣の部屋の鈴木さんのお宅だろう。いつも朝に挨拶をしていたから覚えている。

 しかし、僕はなぜこんなものを見させられているのだろう。

 そこで、少し異変に気付いた。

 まだ小さな子供が、顔を真っ赤にして苦しそうにしているのだ。

 しかし、両親はそれぞれ別の事をしていて、子供が自分で遊んでいたのに完全に安心し切っていたのか、それに気付いていない。子供は、もはや見るに耐えないほど辛そうだった。頑張って両親に気付いて貰いたかったのか、苦しそうに立ち上がり、母親のいる台所へ向かっていた。だが、耐えられなくなったのか、途中で糸の切れた人形の様に思い切り床に打ち付けられてしまった。

「早く。早く気付いてくれよ。早く、早く病院に」

 僕はどこか祈る様な気持ちで映像を見ていた。

 僕の祈りが通じた訳ではなく、きっと子供が倒れた音に気付いたのだと思うが、台所から母親が子供の遊んでいた部屋にやって来た。すると、顔を真っ青にして子供に駆け寄り、声をこれでもかというくらいかけて、母親も軽くパニック状態に陥っていた。

 そんな母親の声を聞きつけてか、父親も仕事部屋から駆けつけた様で、同じく顔を真っ青にしてから、母親をなだめ、子供の様子を確認していた。

「よし、間に合う。間に合うぞ。大丈夫、大丈夫」

 僕は自分に言い聞かせる様に言った。

 父親はすぐに子供を背負って部屋を出た。マンションの近くにある子供病院にそのまま駆け込むつもりなのだろう。

 部屋があるのは僕と同じ二十二階だ。もちろんエレベーターを使うだろう。

 ここで、なぜか映像はマンションの外に映り変わった。

 映し出されたのは、歩きスマホをしながらエレベーターを出た後の僕だった。きっと、さっきの映像の後の僕だ。

 嫌な予感がした。

 父親はエレベーターのボタンを押し、そのまま待つ事三分ほど。一階ごとに止まる異変に気付いたのか、エレベーターを蹴り付けて、階段の方へ向かった。

 そこから汗をダラダラと流し、一生懸命に階段を駆け下りていく。背負われた子供は、その衝撃が苦しいのか、赤い顔がどこか青くなっていく様に見えた。

 子供病院に着いたのは、恐らくあれからかなり時間が経っての事だっただろう。

 子供は前から風邪を引いていたと診断されていたらしく、それがただ悪化しただけだと思っていたらしい。しかし、子供病院に着いた途端、子供は、疲れが癒されるかのごとく、気持ち良さそうな顔で、動かなくなってしまった。

 死因は、心筋炎らしい。

 映像はそこで終了した。

「はは。これも、僕のせいだって?」

「はい、その通りです」

「関係ないだろ。きっと早く病院に着いていたところで、子供の命は助からなかった。そうじゃないのか?」

「適当なことを言ってもらっては困ります。実はそうではないのです。あの時、エレベーターを使えていた時の未来。それを想定すると、あの子供は間一髪のところで一命を取り留める事になります。あなたの軽率な行動で、未来ある子供は死んでしまいました」

「やめろよ。なんて言い方するんだよ。感じ悪いだろ」

「事実ですので」

 何も、言い返せなかった。

 僕は気付かぬ間に、人を二人も殺していた。

 信じることが出来なかった。

 僕はそれを知らずに、のうのうと生きていたのだ。

 何も悪びれることなく、ただただ自分の幸せのために生きていた。

「もう、これで、終わりかな」

「と、言いますと?」

「もう、これ以上僕は人を殺してないかって、聞いてるんだよ」

「ああ、なるほど。そうですね、次の映像で最後です」

「まだ、いたのか」

 もう、映像を見るのは正直嫌だった。

 きっと逃れられない行為なのだろうけど、もう心が持たなかった。

 しかし、ふと、気付いたことがある。

 次で最後と、男は言った。

 そして、男は前に、人を四、五人殺していたら地獄行きだと言った。

 このままだったら、僕が殺してしまった人数は三人。地獄行きは免れる事になる。

「そうだよ。良いじゃないか。別に、僕が直接殺したわけじゃない。ただ、僕は、刺激のない人生を生きていただけだ。ちょっとの悪事くらい、許してくれても良いじゃないか。そうだよ、僕は、こんな僕でも、天国に行けるんだ。地獄なんかにお世話になることはない。天国に行ければそれで良いじゃないか。今までの悪行は心で背負わなければいけないが、それを洗浄してくれるほど天国は素晴らしいとこなんだろう? それならそれで良い。もう何も気にする必要はない。僕も死んだんだ。どうやって死んだかは覚えてないが、きっと僕も誰かに、気付かずに殺されているはずなんだ。それならお互い様じゃないか。きっとそうやって世の中は回っているんだろ。僕だけが悪いわけじゃない。そうだ、きっとそうだ。早く、天国に行こう。早く、映像を流せ。早く、早く!」

 男は表情をピクリとも変えずに、映像を促した。

 映像は、車の中の映像だった。

 僕が今現在乗っている車だ。最近買い換えたばかりだから、これは最近の映像だろう。

 運転しているのは僕自身、隣には妻が乗っていて、後部座席には僕の子供が二人乗っていた。二人とも疲れているのかぐっすり眠ってしまっている。

 これはいつの出来事だろうか。全く覚えていない。

 妻も少し疲れているのか、夢の世界と現実世界を彷徨っているようだった。

 映像の中の僕はそれに気付いたのか、妻に向かって言葉を発した。

『疲れてるなら、寝ても大丈夫だよ。コンビニ着いたら連絡するからさ』

 こめかみの辺りが、ピリピリと痛むのを感じる。

『そう? でもあなたの運転は心配だから、しっかり私が見てないと』

 なんだ、この既視感は。どうしてこんなにも最近の出来事に感じるんだ。

『おいおい。任せろって。付き合いたての頃とはもう違うんだぞ? 子供二人とお前を守る責任くらい僕にもあるから』

 いつだ。いつ僕はこのセリフを言った。

『もう、分かったよ。じゃあ、任せちゃって良いかな?』

 そうだ、確か、これは。

『うん、大丈夫。今日は久々の遠出で疲れだろう。家族で旅行なんて、もうしばらく出来そうにないからな。いい思い出になったよ』

 ああ、そうだ。なんで今まで忘れていたんだ。家族旅行の帰り。この後、確か。

『ありがと。じゃあ、ちょっと寝るね。よろしくね』

 駄目だ。寝ちゃ駄目だ。お願いだ。起きてくれ。

『おう、任せとけ。おやすみ、今日はありがとな』

 駄目なんだ。この後、最悪な事が起きるんだ。分かってるのに。

『ううん、こちらこそ、楽しかったよ。おやすみ、愛してるわ、あなた』

 やめてくれ。そんな事言わないでくれ。お願いだから。

『何だよ、急に。可愛いやつだな。僕も愛してるよ』

 妻の返事は、無かった。

 眠りについた妻があまりにも美しくて、僕は涙ながらに見とれてしまった。

 いや、今涙は流れているのだろうか。実体の持たない僕に涙は流せるのだろうか。僕はそんな自由も、当たり前の事も失ってしまったのではないだろうか。

 映像の中の僕は、案の定、想像していた通り、分かっていた通りに、眠気に身を委ねていた。

 そのまま車は、曲がり角を曲がりきれず衝突し、大破した。

 映像は、そこで終了した。

「お分かり、ですよね」

「妻と、子供は、どうなったんだ」

「お三方とも、もうこちらの世界に来てしまいました」

「まだ、小学四年生と、二年生だったんだ。凄く良い子で、事あるごとに僕のところにきて、凄いでしょって、そんな事ばかりで」

「そうなんですね」

 どうして、こんなことに。

「ちょ、ちょっと、待て。もしかして、これで、五人目?」

「はい、そういう事です」

「いや、待てよ。最後の映像は、事故だろう? 確かに僕が眠かったのは悪いことかもしれない。でも、それは生理現象で、いわば仕方のないことじゃないのか?」

「そうですね、ただ眠かっただけなら、仕方のないことで済まされたでしょう」

「どういうことだ。何が言いたい?」

「覚えてないのですか? この前に何をしたのか」

「この前に、何をしたか?」

 この日は家族旅行で、確か車で遠くまで出て、散々遊んで、夜ご飯は久々に寿司屋にでも行って、それで、確か。

 そういう、ことか。

「分かりましたか?」

「飲酒運転、か」

「はい、そういう事です」

 僕は調子に乗って寿司に合うからと無理を言って、お酒を飲んでしまっていた。これは立派な悪事だ。僕の非であることに、何ら間違いはない。

「あのさ。地獄って、どういうところなのかな?」

「それは言うことは出来ません」

「何でだよ。どうして。あ、じゃあ、それじゃあ、妻と子供達は? こっちに来てるんだろ? どこにいるんだよ。会わせてくれよ!」

「それも出来ません。お三方は今天国で三人再会を楽しんでいます。あなたが天国へ行く事が出来ない限り、会うことは出来ません」

「くそ。畜生。そ、そうだ、確か四、五人は目安って言ってたよな? 人によって重さは変わるからって。どうなんだよ。どうなるんだよ」

「そうですね。二十一歳の視覚障害を患っていた女性には、これから六十年近い人生がありました。そして子供が三人。将来がまだまだ有望な子供達です。そして、心から美しい女性が一人。決定するには、十分な人材を殺しています」

「ちょ、ちょっと、待ってくれよ。おかしいだろ。なんでこんなことに」

「地獄行き、です」

「待て! 認めない! 僕は認めないぞ! おかしいだろ。おかしい。絶対におかしい!」

 そう言っている間にも、視界が段々と歪んで来た。

 男は、目を見開いて大笑いしながらこちらを見ていた。

 ついに表情を、変えた。

 おい、待てよ。ふざけるんじゃねえ。

 声は、出なかった。

 そういえば、おかしな話だ。

 何で実体を持たないのに、口もないのに、声が出たんだろう。

 喉もないのに、目もないのに、こうして喋れて見れたのはなぜだろう。

 おかしな、話だ。

 僕の視界は、ついに真っ暗になった。


「いかがでしたでしょうか」

 どこからか、声がする。

「これが我が社の新体験プロジェクト。名付けて『天国と地獄体験プロジェクト』です。お楽しみ頂けましたか?」

 どういう、事だ。視界はまだ真っ暗闇だ。

「ちょっと、これはもう外してくださいよ」

 そう声がすると、僕の目の上の重いものが取り除かれ、視界が明るくなる。

 急激な明かりに目を細めると、どこか見たような顔が目前に現れた。

「これがバーチャルリアリティ体験。通称VR体験ですよ! 凄いでしょう! 自分の悪事を改め、大事なものをより大事にするという主旨のものなんです!」

 全て、嘘? さっき見てたのは、ただの体験映像だったのか。

「素晴らしい出来でした。本当にこの世界に浸ってしまいましたよ」

「本当ですか! それは良かった! 製品化に向けて感想などを詳しく聞きたいのですが」

「あ、ちょっと、また、後日でも良いかな」

「どうかされましたか? もしかして具合でも?」

「いや、そういう事じゃなくてさ」

「と、言いますと?」

 僕は、あの映像に随分と感化されたみたいだ。

「妻に、早く会いたいんだ」

 僕はいつの間に来たのか分からないビルから出て、自宅へと急いだ。

 途中で、物凄いスピードを出している自転車とすれ違った。

 公衆電話からイタズラをしている高校生たちとすれ違った。

 昼間からフラフラと運転している車とすれ違った。

「悪いことは、するもんじゃないな。それがどんなに小さな事でも、きっと」

 家に着いた。愛しの妻に会えると思うと、それだけで胸が躍った。

「ただいま! 今日は早く帰って来たぞー」

 久々の早帰りだ。きっと喜んでくれるだろう。

 僕は勢いよくリビングのドアを開けた。

「あれ、いないな」

 しかし、リビングに妻の姿はなかった。

 トイレにはいる気配もなかったし、もしかしたら具合悪くて寝ているのかもしれない。

 僕は寝室の扉を開けた。

 開けなければ良かった、と今更思ったとしても、取り返しはつかない。

 僕の妻は、僕の同僚と、一糸纏わぬ姿で、ベッドの中に包まっていた。お互いに幸せそうに寝息をたて、僕がいることには気付いていない。

 すると、妻が物音に気付いたようだ。

 僕の姿を確認すると、慌てる素振りも見せず、ただただ、笑ってみせた。

「さようなら」

 僕の妻はそれだけ言うと、僕の同僚の唇に口づけをした。いつも僕にするように、濃厚に、心から愛し合っているように、接吻を交わしていた。

 僕は見るに耐えなくなって、家から飛び出た。

「なんで、なんでだよ。僕のどこが不満だったんだよ。どうしてだよ。なんであんな奴と」

 僕は子供が下校の際に通る公園で、子供の帰りを待っていた。

 もう僕の心を癒してくれるのは、子供しかいない。

 数時間経ったところで、小学生の姿がちらほらと見えるようになって来た。

 その中に、僕の子供たちの姿もあった。

 慌てて駆け寄ると、子供たちも僕の姿に気付いたようで笑顔になる。

「わあ! なんでおとうさんもういるのー?」

「はやーい!」

 嬉しそうな顔を見ていると、胸がいっぱいになって、嫌なことも忘れてしまえそうだった。

「早いだろう。二人と遊びたくて、早く帰って来たんだぞー?」

「嬉しい! あそぼあそぼ!」

「その前に、お父さん話をしなきゃいけないことがあるんだ」

「なにー?」

「お父さん、お母さんとお別れしなきゃいけないかもしれないんだ。お母さんは、お父さん以外に好きな人ができたみたいだ。その人と暮らしていくんだよ。だから、二人は、お父さんと一緒に暮らそう」

「え、いやだー。ぼくおかあさんといっしょがいい」

「ぼくも、おかあさんといっしょ」

 胸が、ヒリヒリと、痛むようだった。

「お母さんは、二人を捨てたんだよ。悪いことをしたんだ。だからお父さんと一緒に来なさい。もう優しいお母さんはいないんだよ」

「ちがうよー」

「うん? 何が違うのかな?」

「だって」

 子供達は、口を揃えて言った。

「捨てられたのは、僕たちじゃなくて、お父さんだけだよ」

 もうそこに、可愛い僕の子供の面影はなかった。

 子供達は、僕の脇をすり抜けて、スタスタと歩いていく。

「おい、待てよ。待てって。待ってくれよ。もう、僕には、お前たちしかいないんだよ。待ってくれって」

 子供には僕の声が届いていないのか、はたまた無視しているのか、一度も振り返らずに、楽しそうに歩いていった。

 なんだよ、これ。

「現実世界も、なかなかに、地獄のようじゃないか」

 僕は、アスファルトの地面に、体を委ねた。

 異様に、眠たかった。


 どこからか、あの時の男の声がしたような気がした。

「辛い地獄の世界は、ここからが、本番ですよ」

 もう、考える事すら、嫌になった。

「どうぞ、地獄を、満喫してくださいね」

 耳障りな男の声が頭の中に鋭く響く。

「この地獄の世界を現実と錯誤して捉えるか、地獄の世界と割り切ってしまうのかはあなた次第です。しかし、どちらにせよ……」

 僕は、耳を塞いだ。

「悪い事は、するものじゃありませんね」

 僕はそのまま、眠りに就いた。


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