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盗まれた記念日

作者: 丹草花

「うつつをぬかしているからです。」

 そう言われて初めて自分がうつつを抜かしていたのだと気づいた。

 妻はそのあつかましくてあてどない言葉を狭いリビングの中でさまよわせた。それはおそらく私に補足されなければずっと宙を漂い続けていたのだろう。

 窓の外では、ベランダの物干し竿に掛けられた妻のブラウスとフレアスカートが陽光に照らされて気持ちよさそうにゆらゆらしている。まるでそこに誰かがいるのではないかと錯覚しそうになるほど堂々としている洗濯物達。ただ日の当たらない場所に干された私のパーカーは、さめざめと憤りを見せるようにしらじらしい。よく見れば、ガラス窓は随分と薄汚れていた。

 妻のほうに顔を戻すと、話の途中によそ見をしてはいけませんと子供をしかりつけるような薄厳しい目を向けていた。もしくはあたかも私がいまわの際にあるような目でもあった。私は妻の額についた3点のホクロをじっと眺める。つやつやと脂が浮いているのではあるが、その結ばれた三点は神聖不可侵の領域であるような気さえした。十年ともに過ごしてきたが、妻はまったく変わらない。その能面のような表情といい、猫の泣き声をつぶして引き延ばしたような声も出会ったころのままであった。ただ、前ほど額を隠す髪型をしなくなっていた。

 炬燵机の差し向かいに座る私と妻の距離は、二人が同時に頭を垂れればこっつんとぶつかる程しかない。だがその隔たりは今この瞬間においてはあまりにも途方もないようなものであった。生白くて清潔なカップから漂うコーヒーの湯気も今ではすっかり消沈していた。

「それで、何を盗まれたんですか。」

「浮いた心を。」

 冗談で言ったつもりだったが、妻はまったく無反応で、ただただ黙っていた。

「財布を盗まれました。」

「それだけ?いくら入っていたの。」

「4千円。」

「4千円…」

 妻は4千円という言葉を何度か反芻した。「よんと、せんと、えん」が独立して、「グ、リ、コ」のようにリズムを構成する。そのリフレインがなかなか止まずにたまらずテレビのリモコンのスイッチを押す。NHKのお天気キャスターが満面の笑みを満遍なく向けてきた。

 思わずゆるみそうになる口元を刹那できゅっと結ぶ。

 妻は何か言いたげに頭を右に左に傾けて唇を突き出している。すっかり冷めきったコーヒーを指でつまんで口元に運び、カップの着地音と男性のような溜息をかぶせる。細い指と流れた線に白。妻は手だけが年をとっているような気がした。

 路地裏でうずくまる女に肩を貸してくださいといわれて肩を貸した。そのまま女の指先が示す方向に歩いてくださいといわれたから歩いた。ここで降ろしてくださいと指定されたから降ろした。救急車を呼んでくださいといわれたから救急車を呼んだ。電話している最中に女が消えた。あっという間の出来事だった。気が付くと財布があったはずのポケットからは膨らみが消えていた。


「でもさ」と私は再度弁明を試みる。「あんな時間に路地裏で女性がうずくまっていたら、普通ほっとけないじゃないか。」

 妻はそれもそうね、と言いたいような顔をする。けどけっして言わない。私と妻の性格は恐ろしく似ているのだからそれは確信に近い。言えないのではない。言わない。

「そもそも、それって本当なの?」

「はあ?」

 そう言われて私はついムキになりそうになる。うろたえない、うろたえないようにと、テレビの横に咲いた藤紫のスイートピーをじっと眺める。この花は、やってきたころは幾重にも咲き誇っていたのだが、花が枯れる度にハサミで落としていたため今では一つの花を残すのみであった。もう匂いもしなくなった花を愛でる私と妻の間に子は、ない。

「本当は忘れていただけなんじゃないの?昨日が何の日だったか。」

 妻が憤っている一番の理由はそれに違いなかった。そうではないのだから私も余計憤る。忘れるはずがないと言いたいが言えない。その口腔で噛み砕いて飲み下す。自浄していずれ排出する。ふてくされるように頬杖をついてテレビに目を向ける。テレビはいつの間にか今日のニュースに変わっていた。

 ひとつだけ嘘をついた。実をいうと財布の中には1万円札が8枚入っていた。降ろしてきたばかりのピン札だった。それを財布に入れるといつもより気持ち程度に重く感じた。オルゴールをプレゼントするつもりでいた。ショパンを愛する妻に、ノクターン二番を。

 税込み7万9800円は小遣い制の中堅会社員には手痛い出費だったが、それだけの価値があるほどその旋律は美しかった。

「結婚記念日に、美人にうつつを抜かして、その上財布を盗まれた、ねえ。」

 私は何も言えず閉口する。嘘をつかず正直に話したのがかえって裏目にでた気がして、私のうちのなにかが小さくなる。それは子供のころ近所の足の悪いおじいさんに手を貸そうとしたところ酷く怒鳴られた記憶と重なる。もうこれ以上嘘はつけないと思った。

「…オルゴールを贈ろうと思っていたんだ。」

 妻はフクロウのような冷静な表情を私に向ける。

「オルゴール?」

「うん。オルゴール。」

「あの?音が鳴る?」

「うん。7万9800円。」

 続けざまに私は口に結んだ見えない糸をほどくようにそっと呟く。

「…ごめん。実は8万円やられた。」

 妻は何も言わない。しかしその目は非難するでもなく、哀れみを向けるでもなく、そこに何もないような、だけど何かあるような。

 そのときテレビの画面で例の女が映った。窃盗の容疑で逮捕されたのだと、アナウンサーが淡々と述べている。この町の名前が小さく隅に載っている。

 なんというタイミングだろう。こんなことってあるのかと、その偶然的な出来事にしばらく茫然としていた。

「あ、この女だ。」

 古くから知っている女だという風にこの女だと言う。妻も唖然とテレビを眺め続ける。その横顔の向こうに立てかけられた本の帯書かれた、読めば読むほど掻き毟るという言葉がやけに気になってしまう。

「まったく美人じゃないわね。」

「誰も美人だとは言ってないじゃないか。」

 そう言うと何がおかしかったのか妻は顔をほころばせてくくと笑みをこぼした。私もつられて笑いそうになるが、意地なのか決して笑わない。だけど笑いそうになる。結局我慢できずに笑いだしてしまった。ふたりのしめやかな笑いが8畳一間にじんわりと染みつく。

「ふふ、本当だったのね。…ごめんなさい。」

 いや、別にいいんだ、とは言わない。ごめんなさいに対する言葉を私たちは持ち合わせていない。それは共通認識であるだろうから、それでもよかった。

「お金、返してもらえるのかなあ。オルゴール取りいかなきゃなあ。」

 私は恨み事のようにつぶやく。

「多分ね、警察にでも行きましょうか。」

「あ、それと。」間を置かずして妻は「結婚記念日おめでとう。」と言う。

 少しばかり悔しかった、何が悔しいか分からない。先におめでとうと言われたことなのか、又は疑われたことなのか。それでもそのおめでとうはずっしりとしていて幸福的な何かを孕んでいた。だから私も意味のある言葉をおもむろに吐き出す。

「おめでとう。」


 一人ぼっちのスイートピーが匂いを取り戻したような気がした。


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