第四話 頼れる男
独特な静寂の中、多摩実の先発、左投げの山本が投球練習を行っている。先発キャッチャーの郡上のミットからは乾いた音が響いている。柔らかいキャッチングができている証拠である。山本も、郡上の構えたところにほぼ狂いなく投げ込んでいる。
その間、西多摩の選手たちはベンチ前で円陣を組み、監督の谷田川の話にじっくりと耳を傾けている。
「よし、行ってこい!」谷田川が、グラウンドに向けて手を払うと「しゃー!」声を上げ、円陣組んでいた選手たちが散り散りになった。西多摩の一番バッター|藍原《あいはらは、始めから円陣には加わらず、左バッターボックスの近くで多摩実の先発の山本のボールに合わせて、軽く素振りをしている。
「ボールバックー」多摩実のキャッチャー郡上が声を上げると、グラウンドで練習をしていた選手たちが動きを止める。練習に使っていた三球のボールが一塁側ベンチ前に向かう。
山本が、クイックからボールを七割くらいの力加減で投じると、郡上がボールを捕り、素早く二塁へ投じる。低い返球で、ベースカバーに入ったショートの間宮晋太郎がボールを捕り、素早くグローブでベースの近くをタッチする。その後、サードの淺沼、セカンドの間宮亮太郎、ファーストの加治と素早くボール回し、投手の山本へとボールが戻ってくる。
ーー一回の表、西多摩高校の攻撃は、一番、ショート、藍
原くん、ショート藍原くん
独特のイントネーションで放送が入り、審判が「プレイ」と試合開始を宣言すると、サイレンが鳴り響いた。この試合が、荒れる予感をさせるような高く耳障りなサイレンだった。
三塁側のスタンドからはトランペットやトロンボーンなどの金管楽器を中心としたブラスバンドの演奏が聞こえてきた。
多摩実の山本がワンストライクを取る。内角低めのストレートがかなりいいところに決まった。藍原は手が出ず見送る。
山本の投げた第二球は、藍原のコンパクトのスイングに弾き返された。高めに甘く入ったストレートだった。
鋭い打球が、山本の足元を襲いセンター前ヒットーーになるはずだった。その打球はショートの間宮晋太郎が飛びついてグローブに収まり、そのままの体勢からセカンドの間宮亮太郎に素早くグラブトスされ、ボールはファーストに送球された。流れるようなプレーだった。一塁審は、右手に拳を握り「アウト!」とよく通る声で判定を下した。その瞬間球場全体が沸き、一塁側スタンドからは歓声と掛け声が上がった。当の二人は、白い歯を見せて人差し指を立てている。さすがは鉄壁を誇る多摩実の二遊間である。確か、間宮兄弟は去年の秋からレギュラーとして出場し、今年の春の選抜でもファインプレーを連発し、甲子園を幾度となく沸かせていた。二人とも守備力に定評があるが、特に今のようなコンビプレーに定評がある。ショートの晋太郎が兄で、セカンドの亮太郎が弟だ。
去年、浪花史郎も春の甲子園をテレビで見ていたが、あんな二遊間がいたらピッチャーはもちろん、キャッチャーも気が楽だろうな、と感じたものだ。
しかし、西多摩の藍原も足が早かった。あの素早いプレーだったのに、ファーストがかなりギリギリのタイミングだった。
そうなると、キャッチャーとしても非常に助かる。
俊足ランナーに気を配らなくてもいいし、何より先頭バッターにヒットを打たれたらピッチャーのリズムが狂ってしまう。だからこそ、さっきのプレーは大きかったのだ。
「凄いね、今のプレー」
興奮した様子で、左隣にいる服部美佳が言った。
「そうだな、今のプレーは大きかった」
右隣にいる波多野翔大は、頷きながら言った。自身もピッチャーだけあって、ああいったプレーの大きさがよく分かっているのだ。
「そうやな‥‥おっといけんいけん」
史郎は、三角バックからスコアブックを取り出した。
「へー、浪花くんってスコアつけるんだ」
美佳が、驚いたようにスコアを見、史郎を見る。
「そうや、そのほうが試合を集中して観られるし、後で自分ならこの場面はどうするか、これ見て考えるんよ」
「へー、研究熱心なんだね」にこやかに笑いながら史郎を見たあと「翔大は全然そういうの無いよね」と奥の翔大を覗き込み、少し意地の悪い声で言う。
「煩いなぁー、俺はだなーー」
ーー二番、ピッチャー、藤城くん、ピッチャー藤城くん、 背番号3
翔大が、反論しようとしたがウグイス嬢の声に遮られた。
よし、俺はスコアを書くか。
「いいか、俺はだな‥‥」
「はいはい、分かりましたよー」
二人は、まだ何か言い合っていたが史郎の耳にはもう届いていなかった。
代わりにある観客の声が耳に入ってきた。
「また多摩実と西多摩だね」
「今年の春、夏に続き秋もですからね」
それぞれ別の男性の声だが、年齢は共に五十代ぐらいだろうか。スコアブックに、必要な事項を書き込みながらその男性たちの声に耳を傾ける。ただ、目はスコアブックとグラウンドを往復していた。
「もう因縁の対決だな」
「そうですね、春は7対2、夏は2対1、秋は‥‥どうなるんですかね」
そうか! 思い出した!
史郎ははっとした。
西多摩は、初出場ながら夏の西東京大会でベスト8に入った新鋭私立として雑誌に取り上げられていたのだ。
だから、どこかで名前を聞いたことがあった気がしたのだ。
しかも、夏のスコアが多摩実相手に1対2で惜敗だとは‥‥。
今夏の甲子園でも、決勝以外では多摩実がそこまでロースコアになったことはなかったはずだ。注目されて然るべきチームである。
再び打球音が響いた。今度は、先ほどと比べると鈍い音だった。
サードに平凡なゴロが転がっていた。サードの淺沼が丁寧にさばき、ファーストへ送球する。西多摩の二番の藤城が懸命にファーストへ向かって走っていたが、再び一塁審の「アウト!」というよく通る声が聞こえた。今度は、ファーストのタイミングは余裕があった。
ーー三番、ファースト、権藤くん、ファースト、権藤く ん、背番号1
権藤は、ゆっくりと左バッターボックスに向かうと、バッターボックスの手前で二度素振りをする。
それから、今までの二人と同じように、ヘルメットのつばをに片手を添えて主審に向かい一礼をする。再びブラスバンドの演奏が球場に響く。これも、高校野球の応援歌としては定番のものだ。巧打者の登場に、心なしか応援の声も先ほど二人より大きく聞こえる。
外角低めにシンカーが外れワンボール。権藤はしっかりとボールを見極める。
内角のスローカーブにタイミングが合わずワンストライク。
今度は外角低めにストレートが決まりツーストライク。これには権藤も手が出ないようだ。
ワンボール、ツーストライクと追い込まれてからの四球目、また高めに浮いたボールを捉えられ、大きな打球音と共に打球は右中間にライナーで飛んでいく。その瞬間、球場が沸いたが、打球はセンターの山澤のグローブに何とか収まった。権藤は、一二塁間を走りながら天を仰いだ。真っ青な快晴の空を。
また、一塁側からまた掛け声が上がる。一方の三塁側からはため息が漏れる。
多摩実の選手たちは、それぞれ軽くハイタッチを交わし監督の周りで円になる。そんな中、山澤が山本と郡上に何やら言っている。遠目で見ても怒っているのが分かる。
一方、西多摩の選手たちは各々が自分の守備位置に散っていく。投球練習をしている藤城の制球は、相変わらず安定しない。
控えのキャッチャーが、二、三球受けていたが、塚田の準備が終わりキャッチャーが変わる。
すると、塚田は座らずにマウンドに駆け寄った。
ニヤリと笑いながら、何かを藤城に言った。その瞬間、藤城の表示が変わる。言い合っているようにも見える。
その後、数回言葉を交わし、最後は塚田が藤城の胸をキャッチャーミットで軽く叩いて、ホームベースの後ろに座る。藤城は、マウンドで下を見て、土を軸足である右足で蹴っている。
その後、藤城が投げたボールは塚田の構えたところに、ほぼ狂いなく投げ込まれた。その次のボールも同じだった。急に制球が安定しだしたのだ。明らかに、塚田は放った言葉がきっかけだ。
何や‥‥何を言ったんや、何を言ったらピッチャーがあんな一瞬で変わるんや?
史郎は、頭の中で自問自答を繰り返した。
しかし、そんな言葉は一向に思いつかない。
当たり前だ。そんな言葉があったら教えて欲しいものだ。
そんなことを考えているうちに、ウグイス嬢の声が聞こえてきた。
ーー一回の裏、多摩実業高校の攻撃は、一番、ショート 間宮、晋太郎くん、ショート間宮くん、背番号6
一塁側から、定番の応援歌が聞こえてくる。多摩実は、今日は吹奏楽部がいないようだ。強豪校ではよくあることだ。
間宮晋太郎は左のバッターボックスに入った。
初球は、高めにストレートが外れてワンボール。
続く二球目は、内角低めにストレートが決まり、ワンストライク。
バッターは次が狙い目や。史郎は、スコアを眺めながらそう思った。こういう速球派のピッチャーは、先頭バッターを打ち取ると流れに乗れる。だから、次はストライクを取りに来る。そこが狙い目だ。
藤城の投げたボールは、真ん中の低めにきた。好球必打とばかりに、間宮晋太郎は鋭いスイングでボールを打った。
見事なセンター前ヒットーーになるかと思われたが、打球はボテボテのセカンドゴロだった。
これは‥‥多分ツーシームや。
無回転のストレートとは違い、ツーシームは微妙に回転がかかっており、バッターの手元で変化しバットの芯を少しずらす厄介なボールである。だから、芯で捉えた、と思ってもジャストミートせず、今のような内野ゴロになったり打ち上げてしまうことが多いのだ。
間宮晋太郎が、ネクストバッターズサークルにいる山澤に何やら耳打ちをしている。おそらく、最後のボールがツーシームだったと伝えているんだろう。
ーー二番、セカンド、間宮、亮太郎くん、セカンド間宮 くん、背番号4
また、定番の応援歌だが、一塁側は、前のバッターが凡退したとは思えない盛り上がりである。黄色いメガホンが規則正しく動いている。
兄とは逆の右バッターボックスに立つ。
初球は、スライダーが外角に外れワンボール。
藤城が、マウンドの上でロージンを右手で触っている。白い粉が宙を少し舞う。
藤城が、ゆっくりと振りかぶって投げたストレートは、高めに大きく外れた。球場がどよめいたが、これでツーボール。
次は‥‥またツーシームや。
史郎は、先ほどの配球を見てそう予測した。
おそらく、間宮亮太郎の耳にはツーシームの情報は入っていないだろう。だから、まだこのバッターにならツーシームは効果的なはずだ。
きた。
内角高めにツーシーム。
決していい当たりではなかった。一二塁間への平凡な当たりだったが、セカンドの山里は取るだけで精一杯だった。左手にはめたグローブを思いっきり伸ばして、ボールを捕る。そのボールを投げようとした時には、既に間宮亮太郎は一塁ベースを風のように駆け抜けたあとだった。記録はセカンドへの内野安打だった。
この試合初のヒットだった。
一塁側は、高校野球のヒットの時によく流れる曲が聞こえてきた。
ーー三番、センター、山澤くん、センター山澤くん、背 番号1
そして、左打席に立ったのは多摩実の中心選手である山澤だ。多摩実のエースでありながら、三番を打つ打撃力も兼ね備えている選手である。
一塁側からは、先ほどの倍近い音量の応援が響いている。
ボックスに入った山澤は、ゆっくりと構えに入る。藤城は、セットポジションから第一球を投げる。内角にスライダーが決まり、ワンストライク。山澤は、手が出なかったのか、あえて見送ったのか、それはここからでは分からない。
藤城の左足が、マウンドの土から離れた瞬間、ファーストランナーの間宮亮太郎は、左足で思いっ切り地面を蹴り、セカンドへ向かって一直線に走り出した。完全に癖を盗んだ盗塁だった。しかし、西多摩バッテリーは読んでいた。投球は完全に外しボールになった。
ほぼ、立った状態から塚田がセカンドへ送球する。かなり低い送球で、カバーに入った藍原もそのままタッチするだけだった。
二塁審は間を置き「アウト!」といいながら拳を握り、それを突き上げた。
三塁側スタンドが沸いた。一方の、一塁側は一瞬静まり返ったが、直ぐにバッターの山澤の応援歌を続けている。
先ほど、一塁側スタンドから上がったような掛け声が、今度は三塁側スタンドから上がる。
当の塚田は、ニヤリとしながら人差し指と小指を立て、グラウンドの仲間たちに向かって何か言っている。
バッターの山澤は、それを見て表情が険しくなった。
藤城が三球目を投じた。
今度は、内角高めにストレートが決まりツーストライク。これで、ワンボール、ツーストライクである。
藤城の四球目は、内角低めのスライダーだった。際どいコースだったが、山澤は迷わずバットを振り抜いた。
打球は、ぐんぐん伸びたが途中で失速し、ライトの飯塚がフェンスのすぐ手前で打球を掴んだ。
「いーぞいーぞ、飯塚! いーぞいーぞ、飯塚!」
また、三塁側スタンドから掛け声が上がる。
山澤は、一二塁間からスコアボードの辺りを睨み、地面に向かい何かを吐き捨てるように呟いていた。
そうか‥‥風や。
スコアボードの上にある旗が、風で僅かに揺らいでいる。
見ると、風はライトからホームに向かって吹いていた。おそらく、この風が無ければ西多摩は先制点を奪われていただろう。
西多摩の選手たちは、三塁側ベンチに走って戻ってきた。そのまま、ベンチの前で円になる。
円の一点には監督の谷田川がいる。また、何やら話している。一瞬、バッターボックスに向かっている塚田を全員が見て、円に失笑が広がる。しばらく話をした後、一回表のように谷田川が手を払うと、「しゃー!」と選手たちが声を上げ、綺麗な円が崩れる。
ーー二回の表、西多摩高校の攻撃は、四番、キャッチャ ー、塚田くん、キャッチャー、塚田くん、背番号2
塚田が、左バッターボックスに立ち左肩にバットを担ぐと、三塁側のスタンドからは、重低音の応援歌が流れてきた。西多摩も多摩実に負けまいと、声量が先ほどの回と比べて大きくなっている。
内角低めにシンカーが外れ、ワンボール。塚田は微動だにしない。
今度は、外角低めにスライダーが外れ、ツーボール。
次は、内角高めのストレートがファールになり、これでツーボール、ワンストライク。ファールボールが、バックネットを揺らすとどよめきが球場全体を支配する。一球一球、息を呑むような緊張感がある。
塚田は、軸足の左足で地面に浅い穴をつくる。その後バットをゆっくりと肩で担ぐ。
次の瞬間には甲高い打球音が球場に響いていた。
球場は期待のどよめきで一杯になった。
打球は、青い空へ消えたと思ったら、ライトスタンドにあるスコアボードにぶつかった。一瞬の出来事だったはずだが、そんなに短くは感じられなかった。
正直、鳥肌が立った。それこそ足の先から頭の先まで。
二塁審が、人差し指を立てて手首を回す前に、球場は一塁側以外は歓声が沸き起こった。それに応えるように、塚田は右手を空へ突き上げ、声を上げる。太陽の光が、塚田の黒く光沢のあるヘルメットに反射している。
ホームベースを踏んだ直後に、次のバッターの横田とハイタッチを交わしたときは「しゃー!」と感情の入った大きな声をひとつ上げた。さらに、ベンチに戻ると白い歯を見せて、ナインの一人ひとりとハイタッチを交わす。
なるほどな。確かに頼れる男やな。
ふと、塚田の応援歌の掛け声にあったワンフレーズを思い出し、史郎は、独りで納得しながら、スコアブックの塚田の第一打席の欄に、赤ペンでホームランを示す線を書いた。
スコアブックの用紙を風が揺らした。
おもしろうなってきたな。
史郎は、顔を綻ばせると、自然とペンを持つ手に力が入った。
球場に照りつける太陽が、先ほどよりも強くなっていた。