第三話 キャッチャーフライ
神宮球場の脇を抜け、神宮第二球場の入り口に向かう。
すぐにチケットを買い、チケットを係の学生に渡して、半券を貰い入場する。
年季の入っている階段を登り、スタンドに出る。
高校野球の公式戦を生で観るのは久しぶりだったが、やはりプロ野球とはまた違う独特の雰囲気がある。何となく、プロとはまた違った熱がある気がする。
まだグラウンド整備の段階だった。
昔ながらの手書きのスコアボードに、まだスターティングメンバーが出ていなかった。
幸いなことに、バックネットが何席か空いていた。そこまで注目の試合ではないのだろうか‥‥。
「あ、あそこが三つ空いてるよ」
美佳が、指差したのはバックネットの三列目の三塁側の席だった。かなりいい席である。
三塁側から、美佳、史郎、翔大の順で席に着くと、美佳が雑誌を広げた。
「昨日、ドラマ見た後に近くの本屋で買ってきたの」
「ドラマ?」
訛った言い方で史郎が聞く。
「あー、そこは気にしないで、気にしないで」
美佳は笑いながら誤魔化す。ショートヘアの髪が少し揺れる。
「ちょっと、それ見せて」
翔大が、美佳の持っている雑誌に指差す。話が逸れて安心しているのか、少し息を吐いた。
「いいよ」
美佳が翔大に雑誌を手渡す。
しかし、史郎は雑誌が自分の目の前を通り過ぎると、美佳に「で、ドラマって何なん?」と先ほどの話を、笑顔のままぼじくり返していた。
本の表紙見ると、大手出版社が出している本で「徹底分析! 高校野球東京都秋季大会」というような題だった。正直、よくありがちな題名である。
中を見ると、まず多摩実業や東京一、町大三などの優勝候補が紹介されていた。その次のコーナーは「優勝候補を倒すのはここだ!」という題だった。強豪私立を倒せる見込みのある新鋭や古豪、強豪都立を紹介しているページのようだ。
その中に、西多摩高校のページがあった。
「塚田、権藤両名はプロも注目。チームの底上げがどこまで進んでいるか?」
読むと、塚田と権藤という選手が中心選手のようだ。
詳しい記事を読んでみると、塚田泰士は、西多摩の不動の四番で捕手、さらにはキャプテンも務める、まさに西多摩の中心選手でのようだ。権藤晴輝は、西多摩のエースで、左投げのアンダースローで、打順は七番を務めるほどのバッティングセンスも兼ね備えているようだ。
雑誌に夢中になってくると、ウグイス嬢の声が響き、西多摩がキャッチボール、多摩実業がトスバッティングを始めていた。
その間、翔大の目はブルペンに向いていた。両校の先発投手が投球練習をしているからだ。
一塁側、多摩実業側のブルペンには、背番号15で左投げのスリークォーターの投手が投球練習をしていた。
目を見張るような速球ではないが、変化球や制球はなかなかのものだ。
さすがは多摩実だな‥‥控え投手の実力もかなりのものだ。
頷きながら、今度は三塁側のブルペンに目を向ける。
一方の三塁側、西多摩側のブルペンには、背番号3の右投げでオーバーハンドの投手が投球練習をしていた。
速球はそれなりに速いが、正直、制球があまり良くない。
なんで権藤じゃないんだ?
「驚いたなぁ、多摩実相手にエース温存かぁ」
史郎も疑問に思ったようで、しきりに首を傾げている。
何でだ? 何でエースじゃない? いくら考えても答えは見えてこなかった。膝の上にある雑誌を睨んでいると、一塁側からよく聞く応援歌が聞こえてきた。
多摩実業のシートノックが始まったようだ。白が基調の伝統のユニフォームが、グラウンドで躍動している。
選手たちの動きは、さすが名門だけあって洗練されている。内外野共に、捕ってからスローイングまでが早い。
それを、白と黒で構成されている、西多摩のシンプルなユニフォームに身を包んだ選手たちが、じっと見つめている。
そんな中、多摩実の選手たちは、流れるような動きから全員バックホームをして、シートノックを締めくくった。
グラウンドに一礼をすると、スタンドからは拍手が送られ、多摩実の選手たちはベンチに下がっていった。
ウグイス嬢の声が球場に響くと、西多摩の選手たちは、声を上げてグラウンドに散っていった。三塁側からブラスバンドの演奏が聞こえてきた。
内野のノックを打つのは、監督である谷田川輝昭である。元プロ野球選手で、巧打者の外野手として活躍していた。その後、解説者などを数年やり、今年の四月からは、新設の西多摩高校硬式野球部監督に就任した。
しかし、さすがは元プロ野球選手である。
打球の速さや高さもさることながら、打球の打つ場所が絶妙である。全力で打球を追いかけて、ギリギリ取れるところを狙っている。プロで、首位打者に三度輝いているだけのことはある。
しかし、それを受けている選手たちの動きも、目を見張るものがある。正直、多摩実の選手たちにも見劣りしない。
ノックも終盤に差し掛かり、内外野のバックホームが始まる。
ライトがバックホームを終えると、最後は監督の腕の見せ所であるキャッチャーフライだ。
ボールを右手で軽く宙に浮かせると、素早くバットを真上に向かって振り抜いた。打球は、晴れ渡っている空へと高く舞い上がった。さっきは、雲が所々に見えたがいつの間にか快晴になっていた。
背番号2をつけた塚田が打球音ーー金属バットとはまた違う、木製バット独特の音に反応して、真上を見上げる。
反転して、五、六歩バックネット側に近づくと、四秒ほどして打球は落ちてきた。そして、良い音を鳴らしてその打球は塚田のキャッチャーミットに収まった。
それにしても、かなり滞空時間の長いキャッチャーフライだった。元プロ選手とはいえ、現役のときはキャッチャーフライを狙って打つことはまず無かっただろう。
本当のーーというか、試合中に打ち上がるキャッチャーフライは、バッターの打ち損じであって、故意に打つことはほとんどない。しかも、試合中は相手投手のボールの勢いもあるが、ノックの時は静止しているボールを真上に打ち上げなくてはならないから、かなり難しい。翔大も、リトルリーグのチームにいるとき、空いた時間にチームメイトとキャッチャーフライの上手さを競ったが、全員どっこいどっこいで上手くいかなかったものだ。だからという訳ではないが、あの人ーー谷田川もかなりの努力をしたんだろうな、と翔大は思った。
同時に、高校野球の監督になっても真摯に野球に取り組んでいる人なんだな、と翔大は感じた。
「凄いキャッチャーフライやったのぉ‥‥」
選手と何やらにこやかに話ながら、三塁側ベンチに下がっていく谷田川を見て、史郎が呟いた。史郎も、今のキャッチャーフライで何かを感じ取ったようだ。
「よくあんな高い打球を見失わないよね」
興奮したように美佳が言った。
「それはやね‥‥」
何やら、史郎が美佳に説明している。翔大は、捕手をやったことがないので、正直話が耳には入ってこなかった。しかし、美佳は時折「へぇー、そうなんだぁ」と相槌を打ちながら聞いていた。
グラウンドを見ると、グラウンド整備が行われていた。その間に、スターティングメンバーが放送で発表された。
先攻が西多摩、後攻が多摩実のようだ。放送に合わせて、手動で手書きのスコアボードが動いていく。
西多摩 多摩実
遊 藍原 6 遊 間宮(晋) 6
投 藤城 3 二 間宮(亮) 4
一 権藤 1 中 山澤 1
捕 塚田 2 一 加治 3
三 横田 5 三 淺沼 19
二 山里 17 捕 郡上 13
中 山川 8 投 山本 15
右 飯塚 18 左 倉沢 18
左 長川 9 右 永田 9
多摩実が、控え選手を四人も出場させたのも驚いたが、西多摩が控え選手を出場させたのには、さらに驚かされた。
球場内も驚きのあまりざわついている。さのざわめきの中、両校の選手たちがベンチ前に出てきた。
審判団四人が、ダグアウト脇から出てきた。自然と観客たちが静かになった。何とも言えない緊張感が球場を支配する。
主審が「集合!」と告げて軽く走り出すと、両校の選手たちが声を上げて走り出した。
球場は、観客たちの拍手と独特の熱気で溢れていた。