鍵
やあ、こんにちは。
ボクです。
突然に、すいません。今、お時間よろしいですか?
ありがとうございます。
それでは――ちょっとだけ、お邪魔しますよ。
いえいえ、特にお構いなく。お茶もお菓子もいりません。少し、話したいと思っただけです。なあに、ほんの世間話ですよ。大したことではありません。
貴方には、是非とも叶えたい夢がありましたね?
子供の頃からずっと願い続けてきた目標。貴方の希望です。
家業を継がせたい両親を説得して三年間の猶予をもらい、実家を出ました。
そうして始まった独り暮らし。アルバイトと両親からの仕送りを併せての生活。生活費には、お世辞にも余裕はありません。
そんな貴方が住み場所として選んだのが、この浦野ハイツでしたね。
築三十年と、結構古いですが、最寄駅から徒歩七分。
徒歩十分圏内に、郵便局もコンビニもあります。おかげで不便もありません。間取りも1LDK(リビング9畳、洋室6畳)と、独りで暮らすには十分でした。
そして、家賃です。
月、4万9千円。無理をせず払える金額。
いえいえ、さまざまな条件を思えば破格の物件でしょう。
貴方は、ここに住むことに決めました。
けれど、少し疑問に思いませんでしたか?
いくらなんでも、安すぎます。
同じような条件で、他の部屋は1万以上は割高。駅から多少不便に思える場所なのに、6万近くという物件もありました。
それから不動産屋も、あまり積極的には奨めてきませんでした。貴方自身が、カタログの片隅に気が付いて希望したのでしたよね。
その時、不動産屋は複雑そうな顔をしてませんでしたっけ? 貴方は不信に思ったはずです。
まあ、何はともあれ。
ここの203号室で暮らし始めてから、3ヶ月。
貴方も大分、独り暮らしにも慣れてきました。
アルバイトも順調。住人達とも打ち解けています。
何よりです。
初めての独り暮らし。
右も左もわからない。最初は、色々と不安でした。
不慣れだった頃に、色々としてくれたのが101号室の田村さんと103号室の笹崎さん。どちらも年上の社会人男性ということで、頼りがいもありました。
102号室の、渡里さん。
小太りの中年男性。当初は無愛想な印象でしたが、ふとしたきっかけで話すようになりました。
時々、一緒にゲームをしたりしています。
話して見ると、意外に楽しい方でした。なかなかに、気もあっているようですね。結構なことです。機会があれば、是非にボクも混ざりたいです。
え? 今度一緒にどうかなって?
ありがとうございます。
でも、それは難しいですよ。
何せ、ボクは――
この×の××ではないですからね
ん?
あ、いえいえ。
気になさらないでください。
おや、空耳ですか? 疲れているんですかね。あまり長々とお話できないですね。
ああ……それから、となり201号室の神部さん。
彼女は、年金暮らしのお婆さんで、時折料理の差し入れをしてくれます。これが、結構ありがたいのですよね。
ほら食費って、結構切実ですから。自炊も面倒ですし、出来あい惣菜では栄養も偏ります。
そんな感じで、ここ浦野荘で過ごしてきた貴方。
夢に向かってアルバイトをしながら、毎日を一生懸命過ごしています。
いやいや、お疲れ様です。
ボクにはとても真似できません。
けれども、そんな貴方。
ねえ、気になることがあるのでしょう?
半月ほど前。ふとしたことから、このアパートの噂を聞きました。
――ウラミ荘。
ここは、そんな風に言われているのです。
何でも数年前、とある部屋に住んでいた住人が非業の死を遂げたとのこと。
その部屋には悪霊が住み付き、強い恨みを持つ人間を唆し、その恨みを晴らす代償にあの世に引きずり込むらしいのです。それを聞いた途端、この木造アパートがおどろおどろしく見えてきませんでしたか?
その部屋とは――
もう、想像がつきますよね?
はい、そうです。
『202号室』
貴方のとなりの、あの部屋です。
そこには誰も住んでいません。
住んでいないはずです。
けれども、時々ヒトの気配を感じたことがあるはずです。気のせいにしては、あからさまではありませんでしたか? 不気味な物音を聞くこともありませんでしたか? それは、ヒトが呻くような、何か湿ったものを引きずるような。そんな感じではありませんでしたか?
そうして、その話題に触れると、アパートの住人は誰もが言葉を濁しました。
貴方はそのことを、薄気味悪く思っていました。
『いいかい? 202号室には絶対に入ってはいけないよ?』
201号室の神部さんが、幾度となく貴方にそう忠告しました。
そうは言っても、202号室には鍵がかかっています。
一度だけドアノブを回そうとして、神戸さんにひどく怒られました。普段の温厚な様子からは想像もできないほどに。
思い出してみなさいな。そこには、怯えの色も見えていたはずです。
それからの貴方は神部さんの言葉に従い、もう二度とドアノブに近付くことはありませんでした。
まあ、どうせ入ろうとしても入れませんからね。
少し気にはかかりましたが、それ以外に、このアパートに不満はありません。
気にしないことに決めました。
貴方はそのまま、ここに住み続けることにしました。
そうして、毎日が過ぎていきます。
過ぎていきました。
けれど。
いえ、どうもねえ。
本当は――気にかかって仕方ない。
気になって気になって、どうしようもない。
おかげで寝付けない夜も、ありました。
そうですよね?
ねえ、そうですよね?
202号室。
その中が、本当はどうなっているのか。
その向こうに、何があるのか、見てみたくて仕方ないんですよね?
まあまあ、仕方ありません。
正直になっていいんですよ?
人間、見るなと言われれば見たくなるもの。
ふくらむ好奇心は、抑えようもありません。
恥じることはありません。
それが、サガと言うものですよ。
そんな人間を、ボクは嫌いではありません。
そんなある日のことでした。
廊下に落ちていたそれを、貴方は偶然にも拾ってしまいました。
古びた木製の根付がついた、小さな錆びついた黒い鍵。手のひらにすっぽりと収まる、小さな鍵。
そう。
それは――202号室の鍵でした。
それで、貴方はどうしましたか?
その鍵を拾って、どうしましたか?
…………
………………。
……はい。
さあ、どうでした?
202号室には、何がありましたか?
……え?
見ていない?
鍵は、すぐに管理人に返した?
本当に?
それは、本当なんですか?
………………。
なあんだ。
いえ、まあ。
そうですよね。
見てはいけない。
そう言われていれば、きちんと従わないといけませんよねえ。
貴方は、素直で正直な方ですね。
けれども、あ~あ、残念。
いえ、こちらの話です。
気になさらないでください。
ねえ、でも。
本当に――貴方は、
誰とも会わなかったんですか?
…………
………………。
ふむ、どうやらボクの勘違いでしたか。
本当、残念ですね。まあ、仕方ありません。
せっかく、友達ができると思ったのに。
ん?
そう言えば、ボクは誰かって?
あはは、今更突っ込みますか。
まあまあ、気にしないでください。
明日になれば、どうせ忘れてしまいますから。
だって、202号室は、覗かなかったんでしょう?
ええ、でしたら問題ありません。
はい、それではさようならです。
あ、最後に一言。
喜んでくださいな。
貴方が本当に正直者なら、数日後に嬉しい知らせがくるでしょうから。
夢に向かっての一歩、進めるはずですよ。
それじゃあ――さようなら。
近い内に。
また202号室の鍵を拾わないといいですね?
本当に、貴方は202号室を覗きませんでしたか?
本当に、本当なんですか?
本当に、残念。
あそこでボクの姿を見ていたならば、今夜にでも迎えに逝ったのに――ねえ?