スーツ女草原なう
話をしよう。あれは今から360,000───いや、14,000年前だったか。
まあ、嘘である。
ともかくそんなネタを挟みたくなる程度には現実逃避したいお年頃だ。いやもうホント、分厚い大胸筋がブルンブルンと震えた日には、口から「なんじゃこりゃああっ!?」と、古きよき時代の俳優の如く太陽に向かって吼えてしまう程度には驚いた。
何が言いたいかと言えば、私はどうも女らしい。しかし意識はどちらかと言えば男よりだ。───と言うか肉体的にも男だった筈なんだよなぁ、少し自信がないけど。
しかしまあ、現状そんな事を気にする余裕はない。目の前に広がる大草原を前にして、いくら能天気な私でも多少は狼狽えて脅えて一周回ってハイ・テンション! なんて、処理落ち一歩手前な脳ミソが現実拒絶するくらいには余裕なんてありゃしません。
いや、だって此処日本ですよ? 都会とは言えないけど、多少は近代化してる田舎町ですよ? 森やら山やらならまだ許容範囲だとしても、地平線が視える程の大草原なんぞ冗談にもなりゃしない。
これは所謂アレですか? 異世界ですか? トリップですか? 別に変な部屋で新聞読んでるオッサンに会った覚えはありゃせんぞ? BBAのスキマツアーにも招待された覚えもないし。……神様何かミスったん?
だとしたらやめちくれ。私見た目ほど神経図太くないのよん? 悪鬼羅刹だの言われた強面でも中身はオタク寄りな一般人よ? お家帰してマンマミーアッ!
返答はない。悲しい事ながら一人相撲です。
こうなったらアレですよ。覚悟を決めて突き進むしかねえ。だってほら、あからさまに何か出そうじゃない草原って。RPGでは当然のようにモンスター達に襲われる定番スポットな訳で。こんな一部を除いてぶかぶかな──ちなみに一部はピッチピチで、膨らみに赤いネクタイが乗っかってる──スーツ姿で歩く場所じゃない。スニーカーなのがせめてのもの救いです。いや、本当に。これでサンダルとかだったら泣いてたよ。
そんな訳で、行き宛もないままにその辺りを散策する事にした。行きはよいよい帰りは怖い、まあ帰り道はもとからないけどね。ともかく気合いを入れて進みましょうか。
この時の私は知らなかった。
この草原には想像もしなかった恐怖が待ち構えている事に。
◆
迷宮都市グローリア周辺の草原には数種類の魔物が存在している。
醜い緑肌の子鬼であるゴブリン、二足歩行する柴犬のようなコボルト、誰もが知る一角獣ことユニコーン。その他にも有名どころの雑魚からそれなりに凶悪な魔物まで生息するこの草原の中で、尤も人々が毛嫌いしている魔物がいる。
それは別段強い訳ではない。それは別段特殊な能力を持っているわけではない。
ならば何が嫌なのか。それはその造形と、一度に現れる数が原因だ。
その魔物の名はコクロウチ。言わずと知れた黒い悪魔であり、世界最大級の巨大さ(およそ70センチ前後)とその速度は別段敵対行動を取られる訳でもないのに多くの者から毛嫌いされる益魔物の一種である。偏食家で、魔物の死体以外を食さないこの魔物は、しかし見た目の気持ち悪さから討伐を推奨されている哀れな存在だ。
さて、そんなコクロウチだが、───現在目の前に巨大な人影が現れて総数87の軍隊を一時的に急停止させていた。別段襲うつもりはない、むしろ襲われないように動かないのだ。動くとキモイと錯乱した人間から攻撃されるのが常だった彼等は自衛手段としての動かない事を得意としていた。まあ、それでも襲われることの方が多いのだが。
目の前の人間はどうも普段見ている存在と毛色が違うらしい。
知能を持たないが故に本能的にその存在を感じ取ったコクロウチは、カサカサと、何重もの音を立ててその場を急速に離脱する。敵意のない存在を前にして、食料探しを優先させたのだ。
さて、残された人間はと言うと、魔物との初対偶と言う貴重な経験が、まさかの巨大Gとは思わず、全身に鳥肌を立てながらも、いやまあ、別に襲われるわけでもないし、大丈夫大丈夫と譫言のように呟いて、しばらく呆然としていた。
「この世界は、どんな異世界よりも恐ろしいかも知れない」
後に彼女は語る。
自分が一番身の危険を感じたのは龍に襲われた時でも、幽霊船に殴り込みを行った時でも、ましてや魔物の大進行でもなく、この日遭遇した無数の黒い悪魔の群れが、突如として芝生の隙間から姿を現し、そして雪崩のような勢いでその場を去っていった瞬間だったと。