表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

八月に捧ぐ

作者: 伊吹まるお

 開演のブザーが鳴った。場内が暗くなる。後輩の峰岸に目配せをすると、彼は黙って頷いた。頷きを返し、一息吸って、薄ぼんやりとしか見えないステージに出た。

 ステージの後ろ、一番高い四段目にある椅子に座る。既に譜面台に置いてある楽譜を軽く改める。第一楽章の例の箇所には黄色い蛍光マーカーが引いてある。このFの音は外すわけにはいかない。僕たちトランペットパートが最も目立つ箇所だ。とたんに緊張が高まる。本番で音を外してしまう光景ばかりが目に浮かぶ。嫌な考えを打ち消すように僕は前を向いた。

 観客席がある。たくさんの黒い人影が見える。時折、波のようにうごめく。音を立てる者はおらず、しんと静まり返っている。場内をほのかに浮かび上がらせる青白い光。観客席はまるで深海のように見えた。

 オーケストラ全員の着席が済んだ。ステージライトが煌々と僕らを照らす。眩しさに思わず目を細めた。逆光で観客席は全く見えなくなった。無理やり胸を張り、体の前でトランペットを構える。緊張は最高潮に達していた。体が細かく震えているのが分かった。峰岸に気取られないよう必死で抑える。

 指揮者が入ってくる。観客の拍手を一身に浴びながら、今年で定年の奥山先生がステージに入ってくる。練習中の般若のような顔ではない。本当に楽しそうな、幸せそうな満面の笑みだ。指揮者台の横で一礼をする。拍手が一段と大きくなり、そして止む。指揮者台に上がった先生が、さっきの笑みのまま、僕たちを誇らしげに見回した。全員が先生に注目する。先生は唇だけで、

「楽しもう」

と言った。僕の緊張は吹っ飛んだ。背筋が無意識に伸びる。震えが止まる。体の芯からむずむずするような感情が湧きあがる。ああ早く、早くこのペットを鳴らしてやりたい。思いっ切り解放してやりたい。同時に、この演奏会が僕ら三年生や先生にとって最後の演奏なんだという実感が唐突に溢れてきた。形容できない切なさが胸を締め付ける。悔いの残らないような、最高の演奏をしてやろうと思った。

 先生がもう一度僕らを見渡し、タクトを取る。上げる。僕たちは訓練された軍隊のように楽器を構える。この世で最も緊張した、永遠とも思える数秒が流れる。マウスピースの冷たさだけが現実だった。僕のトランペットは目の前で、どうだと言わんばかりに銀色に輝いている。

 暴力的に振り下ろされるタクトと同時に轟くティンパニ。

 曲が始まった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 峰岸の存在と不在がただ不憫。必要ならキャラ立てをしっかりしてほしい。 吹奏楽であるのに「早くペットを鳴らしてやりたい」という協調性の欠如。がっかり。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ