☆ ☆ 第1話 婆が来る
「早く寝なさい。婆が来るよ」
ふと母の声がよみがえる。それは幼い日の記憶。夜更かしをするたびに、母は「婆が来るよ、さっさと寝なさい」と焚き付けて僕らを寝かしつけた。
三つ年上の兄は、「婆が来る前に寝るぞ」と寝付けない僕をよそに寝入ってしまった。どんなに名前を呼んでも、体を揺さぶっても目を開けてくれない。今思えば、兄の悪質ないたずらにまんまとかけられていたのだ。
兄の低い呼吸音と、虫や風の音を聞いて体を固くしていた。不意に風も虫の音も止ってしまう瞬間がある。すると、自分だけが闇に飲み込まれたような恐怖に襲われた。
そのたびに母の元へ逃げ込んだ。「婆が来るよ!」と泣き叫んだ僕を母は優しく抱きしめ、寝つくまで傍にいてくれた。
ある雨の晩、真っ暗な夜闇の中だった。庭に爛々と目を輝かせ、額に乱れた白い髪の毛を貼り付た老婆を見つけた。
一瞬ではあったが、その老婆と目を合わせてしまった。
これが母の言っていた「婆」なのだ、と直感的に理解した。
その後どうしたのか、記憶は定かではない。いつか婆が僕を殺しに現われるのではないかと冷や冷やしたことだけはぼんやりと残っていた。
しかし、婆を見たのはその一度だけだった。
長い月日が流れ、もう中年という歳もとうに過ぎた。孫がちょうど、あの時の僕と同じくらいの年だ。ここにきて、ついに婆に再会してしまった。
婆は小さな棺に収まって、安らかに笑みをたたえていた。
母の葬式での出来事だった。