9.
弥生道での工事が楽なのは、作業内容が単調で、飛鳥道でのそれに比べてより頭を使う必要がないからだ。作業のパターンを体に覚えさせれば、後はほぼ頭を使わず、無意識の内に仕事を終える事ができる。時間ギリギリに到着した俺は、今日も同じように作業へと向かった。
飛鳥橋現場での多田野のような、話せる同僚がここには居ない。それは、俺が午後だけこの現場に現れるからというのもあるが、それにも増して、皆が俺と同じようにして脳活動を停止し、ロボットのように働いているからだと思う。この現場は、だからどこか活気がなかった。
単調な作業にも、価値はある。単調な作業によって、道が舗装される。道が舗装されれば、自分で使う訳でないとは言え、多くの人々の交通に役立つ。結果、単調な作業は人々の利便に繋がっているのだ。そう俺は、自分を誤魔化して、騙して仕事を続けている。俺はきっと、人々の利便の為に働きたいなんて、思ってはいない筈なのに。今を肯定する為には、自分を騙し騙しするしかなかった。
額に溜まった汗を、汚れた作業着の袖で拭う。そしてまた、俺は作業へと戻った。
六時半を知らせるベルと共に、今日の作業は終了した。
皆、無言で、まるで自分の他には誰も居ないようにして作業服を脱いでいく。それに混じって俺も黙々と通勤服へ着替え、何に後ろ髪を引かれる事もなくさっさと現場を後にした。
さて。本来は、これから家に帰って癒されようという所なのだが、今日ばかりはそうはいかない。俺は昼に通った小道を戻りながら、今後の展開について様々な想像を浮かべた。
例えば、そのまま家へ連れて帰った所を、清花姉が勘違いして俺を蹴り飛ばすパターン。これは何というか、想像に易い分あり得るような気がする。この場合、俺は最悪の場合、全治二週間の怪我を負う事になる。これはバッドエンド直行という事だ。
例えば、彼女の実兄が現れて、
<妹をたぶらかしたのはお前かぁ!>
などと叫び、俺に殴りかかってくるパターン。これもないとは言い切れないケースだ。この場合、不意を衝かれた俺は、何の抵抗もできずにその場に倒れ込む事になる。これは全治三日ぐらいだが、俺は心に大きな傷を負う事になるから、これもバッドエンド直行に他ならない。
あるいは、女の子が可愛すぎて抱き締めてしまい、誰かにより警察に通報されるパターン。
「あっ、お兄ちゃん! どうもです~」
そうそう、こんな風に駆け寄ってくる女の子を、がばっと抱き締めて……。
「お……お、お兄ちゃん? その、ちょっと恥ずかしいです」
「え?」
とっても柔らかい。だけれど、俺は今、何を抱き締めてしまったのだろう。
「ごっ……。おおう……」
そのままの体勢で少し落ち着いた所で、やっと俺は状況を理解した。
「いや、ごめん。つい手が出た」
慌てて女の子を解放する。
「いえいえ~。抱き締めて頂けるなんて、ありがたいばかりです」
と、女の子は満面の笑みを浮かべる。この子は天使か何かだろうか。これが清花姉なら殴られているだろうし、清水なら二時間ほど口を利いて貰えない所である。
「という事で、行きましょう~」
「ああ、そうだな」
天使の声に、俺は大いに頷いた。そして、頷いてから、また上手く乗せられた事に気付く。
「えへへ、お兄ちゃんのお家、楽しみです~」
更に、その満面の笑みを見て、引き返せない事までも知らされる。俺は顔を弛まさせられながら、
「……名前は?」
と訊ねた。
「岡本紗季、と申します~。お兄ちゃんのお名前は?」
「岡村武司だ」
「わぁ、岡が一緒です! 武司さんとは、おか友になれそうです~」
そんなオカルトっぽい友達は嫌だ。しかし、紗季ちゃん、とは、見た目や雰囲気通りの可愛い名前だと思う。何というか、とにかく全体としてつぶらな花のようである。
「ええと、とりあえず行こうか。遅くなるといけないし」
「はい!」
元気の良い返事と共に、俺達は不自由な足下を気にしつつ歩き出した。
■ ■
家の戸を、慎重に開く。全ての音は今に限って禁止されていて、俺はさながら腕のある泥棒のように、じっくり、ゆっくり、それでいて確実に、玄関の最も安定した部分へと最初の一歩を置いた。
「ただいまです~」
「ぐは……」
そんな俺の苦労や工夫を全く無に返すように、紗季ちゃんはよく通る声で挨拶をしながら、勝手に中へとあがっていった。
「武司が、武司が……あの変態だけど純粋だった武司が……女の子を連れて帰ってくるなんて!」
「違ぇよ! ってか、変態だけど純粋ってなんだよ!」
更に、最悪のタイミングで玄関へ出てきた清花姉が、紗季ちゃんの姿を一目見てそう冗談めかして言ったから、玄関は突っ込みどころと混乱によって阿鼻叫喚の場へと変貌を遂げた。
「あきゅー。騒がしいです。私がせっかく、静かに水を飲んでいるのに……あっ」
ばっしゃーん、という景気の良い音と共に、二階で躓いた清水の手の中のコップから、階下をどんどん進んでいた紗季ちゃんの上へと、水が勢いよく飛んだ。繰り返し言うが、まだ冬である。世間ではまさに、インフルエンザが流行しているのである。
「と、突然雨が降ってくるなんて……凄い家です!」
紗季ちゃんは紗季ちゃんで、何が起こったのか正確に理解できず、そんな感想を俺を振り返って述べている。
「いや、他にあるだろ! おい、清花姉、タオル持ってってやってくれ」
「誰に? 武司がお持ち帰りした彼女に?」
「だから違ぇよ! あれはその……拾ったんだよ」
「なるほど、最近の子はそういう設定で連れ込むのね……」
そうブツブツと言いながらも、清花姉は自分の部屋へとタオルを取りにいってくれた。
「雨じゃないとしたら……もしかして雨漏りでしょうか? でも今日は晴れていますし、武司さんのお家はミステリアスです!」
「あー……。おい、清水。降りてきて謝れって」
このままいくと、ビックリハウスなり幽霊屋敷なりに認定されかねない。そう思って、俺は階上の清水を呼んだ。恐らく少し迷ったのだろう、少しの間をおいて、清水はどたどたと階段を下りてきて、紗季と向き合った。
「わあ、可愛いです~」
「……あきゅー」
何の戸惑いもなくにこにこと笑顔を見せる紗季ちゃんに対して、清水はこれから告白でもしようとしているかのように、ふるふると震えて明らかに緊張していた。
「…………」
「……あの?」
「こいつ、ここに居候してる清水っていうんだ。さっきの水はこいつのせいなんだよ。それで、謝りにきたって訳だ」
無言の清水に紗季ちゃんが疑問を抱き始めたようなので、仕方なく俺は助け舟を出した。
「……です」
清水も、これ以上ないほど上手に助け舟に乗っかってきた。
「なるほど~。ちょうど体が火照っていたので、大丈夫ですよ~」
「……この人良い人です」
清水はそう言って、もう中身がほとんどないコップを紗季ちゃんへと差し出した。
「という事で、私に水を注いで下さい」
「ええと、はい。分かりました~。キッチンお借りしますね」
コップを受け取って、紗季ちゃんは台所の方へと歩いていく。
「あうっ」
「馬鹿、初対面の人に何言ってんだ」
俺は、またたっぷりと注がれて帰ってくるのだろうコップを思って落ち着かない清水に、一つそれなりのデコピンをしてやった。