8.
弁当魔井上が去ってからさほどの時間も経たない内に、多田野は昨日に続いて現場長に呼ばれ、引きずられていった。現場長の娘がどんな人物か知らないが、よほどの物好きだという事は間違いない。
オムライスを一人で食べ終え、ごちそうさまでした、と手を合わせると、ちょうど休憩終了五分前の合図である電子ベルの音が鳴った。遅れると、様々な面倒が増える。俺は弁当箱を急いで片付けて、またメットを被って持ち場へと戻った。
無心で働き続ける。それが、工事現場での仕事を少しでも楽なものにする為の、唯一の工夫だった。
午後一時半、飛鳥橋高架下での作業を終え、作業服から通勤服へと着替え直す。とは言っても工事自体はまだ続いていて、こんな時間に作業服を脱ぐのは俺ぐらいのものである。
楽な仕事。弥生道補修工事は、飛鳥橋で工事をする人々にそう呼ばれていた。それでいて、賃金は弥生道も飛鳥橋も変わりない。弥生道は、俺からは飛鳥橋の上位互換の仕事に映っている。実際楽だ。だが、それを飛鳥橋高架下の人々は否定する。
やりがいが感じられないらしい。弥生道は都会への出入り口であり、普段ここで暮らしている人々にとって馴染みがない。それに対して飛鳥道、飛鳥橋は、スーパーや商店街を近くに持っているため、身近な場所なのだった。
<どうせやるなら、自分の知っている所をやりたいじゃねぇかよ>
とは、飛鳥橋高架下現場長の言葉である。何となく分からないではないのだが、どうしても俺には、それを辛い職場を選ぶ理由までには昇華させられなかった。
とぼとぼと一人、道を歩いていく。あれだけ不真面目な多田野ですら、現場長と同じ事を言って飛鳥橋に居続けている。それはつまり、俺だけが何か、おかしいという事なのだろうか。それはそして、辛い現場でも耐えられる、笑える、そんな理由を俺が見つけられていないからなのだろうか。
そんな事を考えている内に、俺は飛鳥道から入った商店街を抜け、小道へと入っていた。自転車は通れなくなるほどにがたついた舗装の不十分な道だが、弥生道へ出るにはここを通るしかない。足元に気を付けつつ歩いていると、後ろから俺の背中に手があてられた。
「お兄ちゃん! ちょうど良かった~」
「……どうしたんだ?」
振り返るとそこには、十五,六ほどの短髪の女の子が立っていた。季節外れの薄いワンピースが、どことなく幼さを残していて可愛らしい。身長も低くて好みだし、こんな妹が欲しかったな、と少し思った。
「泊まる家がなくって……お兄ちゃんの家、止めて下さい」
「俺には妹が居たなんて記憶はないけど」
「私だって、お兄ちゃんがお兄さんだったなんて記憶はないですよ~」
良かった。田舎の両親の隠し子とかだったらどうしようかと思った。
「でも、私のお兄さんに少し似ていたので、ついお兄ちゃんって呼んでしまいました。えへへ」
だが可愛い。無垢な女の子、という雰囲気が、俺の表情筋を弛緩させまくっている気がする。引き締めないと不審者だと思われかねないほどにだ。
「と、いう事で、泊めて貰えますでしょうか?」
「いや、それとこれとは別だからな。色々と無理だって」
「これってどれですか?」
女の子は、目を潤ませながら俺のズボンを引っ張ってきた。
「それに、泊めて貰えないと……野宿になってしまいます」
「いや、そんなの……」
俺には関係ない、と言いかけて、俺は口を噤んだ。女の子の、今にも泣き出してしまいそうな顔を見てしまったからである。人によってはむしろ泣かせてみたいと思うのだろうが、俺はそこまで嗜虐的には出来ていなかった。
「どうしても、ダメですか……?」
「どうしてもって事はねぇけどさ」
苦し紛れに、曖昧にしてそう言う。だが、女の子の表情はその俺の一言で一挙に明るくなった。
「ありがとうございます~! お兄ちゃんを頼って良かったです!」
そう言って、女の子は俺のお腹の辺りに抱きついた。ああ、温かい。柔らかい。力一杯抱きしめてきているのが、心地良い圧迫になって心が癒されていく。
「……お兄ちゃん?」
「はっ……」
あまりに可愛すぎる上目遣いの衝撃に、俺はむしろ現実へと引き戻された。
……しまった。ここから断るのには、多大なる苦労と精神力と、それから忘却能力も必要になる。俺はそのどれもさほど持っていないし、費やしたくもない。
「俺、これから仕事なんだ」
「そうなのですか~。どれくらいに終わりますか?」
俺の腕の指示に従って、女の子は俺から離れながら、そう訊いた。
「七時前ぐらいかな」
「では、その時間頃に、またここに来ます。ではでは~」
俺に有無を言わさない内に、女の子は走り去っていった。
……どうしようか。既に一人居候は居るから、他の家よりも泊めるには抵抗がない方の筈だが、それにしても清花姉にどう説明すれば良いのだろう。そもそも、俺はあの娘から名前すら、聞いてはいない。
そうして俺は少しの間立ち尽くして、時間がない事に気付き走り出した。