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犬猿の騒乱  作者: K_yamada
一.夢
7/59

7.

 気が狂った鈴虫が、限界を超えてけたたましく鳴いた時の音を、俺は聞いた事がない。だが、今鳴っている音はそれに近いのだろうと思われた。

「……ってか目覚まし三つも掛けんなよ!」

 色も大きさも様々な目覚まし時計達が、それぞれ俺の左耳と右耳の前、それからあごの下で、一斉に仕事を開始していた。音と音が混ざり合って、相互に作用を高めているものだから、俺の安眠はひとたまりもなく吹き飛ばされていった。

 心を落ち着かせてから、一つずつ止める。目覚まし時計はどれも一様に六時十五分を示していた。ちょうど、普段目覚める時刻である。

「…………」

 清花姉のしわざには違いない。しかし、それらによって寝坊する所を起こされた俺が、一体どんな文句を言えるというのだろう。俺は無言で、耳鳴りに対する怒りの矛を収めようと深呼吸をした。

「……はぁ」

 深呼吸は溜め息になった。

 さて、今日はいつものパターン通り、午前中は昨日と同じ『飛鳥橋高架下』、午後二時からが『弥生道補修』だ。飛鳥橋高架下が飛鳥道に架かる歩道橋の周りの工事なのに対して、弥生道補修はその名の通り弥生道の広域補修工事である。飛鳥道、弥生道というのは道の名前で、どちらも片側一車線の道路だが、飛鳥道の方は道幅を広くしている真っ只中だから、今後どうなるのかは分からない。弥生道の方は、三ヶ月ほど前に市民運動の団体が破壊して回ったので、今は通行すらできない状態だった。住民は迷惑しているが、俺にとっては仕事が得られるチャンスをくれた市民団体は、ありがたい存在だ。

(……まあ、他にやり方があるだろ、とは思うけど)

 思えば、それは単なる悪ふざけが寝坊しかけた俺を起こした事と似ている。市民団体の単なる暴動が、破綻しかけた俺達の生活を助けたのだ。それで、何となく釈然といかないが、文句も言えない。見えない何かが俺の口を塞いでいるのだった。

「よっし」

 朝から考えるべきでない事柄たちを一言で頭の隅へと追いやって、俺は顔を洗いにベッドから立ち上がった。




■ ■


 ぐうぅ、とお腹が情けない音を立てた。

 昨日、晩ご飯すら食べずに眠ってしまったのだと思い出したのは、通勤路での事だった。その時にはもう手遅れで、朝ごはんはいつもと同じ量だけしか食べなかったから、午前中の仕事中、丸々昨日の晩ご飯分だけエネルギーが不足していた。

 しかし、それもついに終わりになる。待ち焦がれた昼食の弁当は、今俺のすぐ右隣にあった。

「今日はあんこパン持ってきたんだけどさ。いやぁ、僕って現場長の娘さんに好かれちゃってるでしょ? 今日もお弁当作ってこられたらどうしようかなって……」

「さっき、現場長が縫い針仕込んでたけどな」

「うげえっ!」

 自慢話の長い多田野を黙らせて、弁当箱を開く。中には、予想していたようなご飯とおかずではなく、オムライスがどん、と座っていた。あまり崩れていない所を見ると、柔らかそうな卵の下のケチャップライスはよく詰まっているらしい。割り箸では少し食べにくいが、量があるのはありがたい。

「オムライスか。オムライスは良いな。栄養価も高いし、万人に愛される味だ」

 いただきます、と手を合わせた俺の前に、うんうんと頷く女の影。

「やあ。今日も貰いにきたぞ」

 昨日の弁当魔だった。

「いや、今日はやらねぇからな。そこのあんパンなら食べても良いぞ」

「僕のだよ! 何言ってくれてんだよっ!」

「私はお弁当が良いんだけどな……まぁ、今日はそれで我慢しよう」

 さっ。ビリビリ。ぱくん。もぐもぐ。

 それは、目を疑うほどの早業だった。多田野が止める暇もなく、あんパンの四分の一ほどは弁当魔の胃へと入っていった。

「ふむ……下流の味だな」

「お前、ケチっただろ」

「昨日の千円クリーミィパンが月一の奮発だったんだよぉ!」

 奮発して買ったそのクレームパンも、中流だったが。俺も、改めて手を合わせいただきます、と言って、割り箸を割った。

「安心しろ、お前には現場長の娘の弁当があるじゃねぇか」

「縫い針入りなんて食いたくない……」

「疑心暗鬼になるなって。それ、多分タバスコだからさ」

「あんたが言ったんでしょ! しかもタバスコでも十分嫌だよ!」

 文句の多い奴だ。こんなにも美味しいオムライスを前に、一体何を不満に思うと言うのだろう。

「ああ……美味い……」

「あんた最低だよっ。くっそー、明日は針入りパン持ってきてやるっ!」

 がすっ。多田野の昨日と同じ肩へ、全く同じ角度で手刀が入った。

「パンが不味くなる、黙っていろ」

「……何かすっごい……不条理……っ」

「まあ、名前ぐらい訊いたら良いんじゃねぇか?」

 ふるふると肩を震わせる多田野へ、そう提案してみる。もちろん俺が知りたいだけである。

「そ、そうだな……。くっど、ゆー、てる、みー、よあ、ねーむ?」

 恐らく、というか確実に日本語で通じると思う。

「井上だ。お前の名は?」

「僕は多田野。へぇ、井上ちゃんかぁ……」

 井上。何となく、どこかで見た事があるような気のする名前だ。と、オムライスを飲み込みながら思う。

「いや、お前には訊いていない。そっちのオムライスに訊いている」

「……僕、傷心で死にそうなんですけど……」

「俺か? 岡村」

 何となく苗字を言わないといけない気がして、俺はそう答えた。

「あんた、岡村って苗字だったのかよ……」

「お前が驚くな」

「うむ。岡村。明日はちゃんと私の分も用意しておけ」

 と、弁当魔井上はあんパンの空袋を多田野に手渡し、立ち上がった。たったパン一つでお腹が膨れるとは思えなかったが、その表情には満足の色が浮かんでいた。

「いやだって言ったら?」

「こいつのパンがまた私の物になる」

「じゃあいやだ」

「あんたら最悪だぁ……」

 多田野がそう頭を抱える姿にふふ、と小さく笑みを浮かべた井上は、

「ではな」

 と小さく手を振って、そのまま去っていった。

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