6.
部屋で着替えを済ますと、俺はベッドへとうつ伏せに寝転んだ。そうしても身体的疲労にとってそれほどの違いはないのだが、疲れた体を何かに預けたいという欲望は座っているよりもずっと満たされる。
絶望的な閉塞感が押し寄せてきていた。内戦なんてすべきでない。そうは思うが、ならば俺に一体何ができると言うのだろう。俺は、独力では抜け得ない場所に佇んでいるようなものだった。
――何事も、思い通りには行きません。だけれども、だからこそ、何かを思い続ける事に意味はあるのです。
高校三年生の時の、担任の女先生の言葉だ。あの頃は、思い続ければ、道は開けると思っていた。だが、開かなかった。道は思い続けても、先生の言葉のままに、思い通りには開いてくれない。
(なぁ、先生……)
少し臭いがする、四日目の枕に鼻を押し当てて、俺は目を強く閉じた。
(いくら思ってても、道なんてねぇよ……)
目頭に、目尻に、涙が満たされていくのが分かる。
(なのにどうして、思い続けろなんて言ったんだよ……)
もう一度、尋ねたかった。あの日、軽く聞き流してしまった、納得したつもりで居てしまった、言葉の意味を。どうしてそんなにも残酷な言葉を、俺たちに与えたのかを。
……だが、そんな道さえ、俺には閉ざされていた。
どすっ、どすっ。背中に、鋭いチョップが二度ほど入る。
「武司。起きて下さい」
さほどの痛みではないのは、鋭い割に力が伴っていなかったからだろう。うつ伏せの体を、チョップの主へと向けて横向きの体勢にする。
「何だ。また水か?」
「水くらい自分で注げます」
嘘つけ。コップ音痴の清水に限って、水を自分一人で注げるはずがない。
「清花姉さんからの伝言があります。再生しますか?」
「いや、消去する」
「では、再生します」
会話が成立しない。意地悪をした俺も俺だったが。
「熱あるんだからよく寝て治しなさい、と言っていました」
「熱?」
自分の額に手をあててみる。
「うわ……」
大量の汗が浮かんでいた。最近は少し暖かくなってきたが、まだまだ二月らしい寒さは健在だ。だから、汗は気候のせいではない。
またか、と俺は目を閉じた。気付いてみると、頭もがんがんと唸って痛みを訴えている。横になっていてさえ、吐き気が催されてくる。
俺の病気だった。いつからかは分からないが、熟考すると風邪のような症状に襲われるのだ。少し、根を詰めすぎた。
「伝言のために、熟睡していた武司を起こしたんですから、感謝して下さい」
「……何となくおかしい気がするけど、まぁ、ありがとう」
「お礼に水を注いで下さい」
こいつは話の流れを理解していないのか。というか、自分のいくつか前のセリフを既に忘れているとなると重度の鳥頭だ。
「安心しろ、コップの水アレルギーは治しておいたから、お前一人でも注げるよ」
「水のコップアレルギーがまだ残っています」
「元からねぇよ、そんなもん。てか、寝かせてくれ……」
増してくる頭痛とめまいに、俺はそう声を低めて言った。
「……はい、分かりました」
清水は基本的に聞き分けの良い奴だ。俺の真剣な雰囲気を感じ取ると、数秒俺の頭を撫でた後、部屋を出ていった。
目を閉じる。まぶたの裏の闇はどこまでも深く、その奥へ、奥へと、俺は落ちていった。
ぽつん、と一人。海とも空とも宇宙ともとれない広い場所に、俺は取り残されていた。
広い場所。多分ここが広い場所だと思えるのは、ここに俺の他のどんなものすら存在しないからだ。
俺はそこでただ、漂っていた。辿り着く地面も、縋り付く柱もなく、たった一つの目的さえ失って、ただ、ただ、漂うだけ。漂っている時の俺は、時間の感覚もない。思考すらしない。
……ある時から、俺はそんな自分を、外から眺めていた。漂うだけの俺。死んではいないが、だからといって生きていると言えるのだろうか。たとえ俺が生きていても、俺の周りには誰も生きていない。そうしたら、俺が生きていても、何も変わりはしない。死んでいたって、一緒だった。
漂う俺は、激流を求めているようだった。この、何もない空間から俺を追い出してくれる、そんな激流を。波濤に押し出されて、俺はやっと、俺である事ができると思っているのだ。漠然と、誰かが、何かが、俺を連れ出してくれると。そう信じているのだ。あるいは、そうする以外、何をすれば良いのか分からないのかも知れない。
見ている俺には、漂う俺が哀れに思えてならなかった。そして俺は、俺に話しかけた。
「お弁当、取られたんだよ」
何の取り留めもない話。漂う俺は聞いているのかどうかすら分からない。だけど俺は、話をやめなかった。
そうしてそれは、見ている俺の唯一の仕事になった。