57.夢
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刻一刻と、春は目の前から更にこちらの方へと歩みを進めている。仕事を終えての帰り道、枯れ木のようだった桜の木が、少しずつ生きた色をし始めているのを見かけて、そう思った。
春になれば、何か変わるのだろうか? 俺の中に鬱積していた、たくさんの葛藤や悩みは、ほとんどが雲散霧消してしまった。その葛藤の中には、冬になって新たに抱えた問題もあったし、昔から持ち続けていた持病のようなものもあった。一日、一日と見てさえ、俺はこの冬、変わり続けている。冬全体では、どれだけ変わっているのだろうか。
春になれば、何か変わるのだろうか? 新しい誰かと知り合って、誰かと別れ、何かを失くして、何かを得る。そんな日々が、迫り来る春にも含まれているのだろうか。桜川は、その内自分の家へと帰っていくに違いない。清水も、本格的に組織の活動に戻らなければならない時期が、きっと近付いてきている。そうすると、清花姉は家に帰ってくるのだろうか。帰ってこないのかも知れない。清花姉と俺は、とても仲の良い姉弟だけれども、いつまでも一心同体とはいかない。夢花ちゃんはどうだろう。井上の作った居場所から、巣立つ日は近いのだろうか。巣立つ必要なんて、ないのかも知れない。誰も強いてはいないのだから。多田野だって、いつ新しい気を起こして、工事現場を去っていくか分からない。そもそも、工事はいつまでも続きはしないのだから、放っておいても多田野や夢花ちゃんとは、バラバラになる。残念な事に、今は郵便局を利用するにもそれなりのお金がかかった。携帯電話だけが、わずかに繋がりを保つだけの事で、それは有為な繋がりではないように思える。
春になれば、何か変わるのだろうか? 変わるに違いなかった。新しい人と出会って、またその人に新しい念を抱く。秋が冬になる時も、そうだった。冬が春になっても、きっとそうだろう。
春になれば、また、何かが変わる。平和な気がする日々も、実は、激動のひとひらなのだった。
家に着くと、桜川は何か一つ重しが外れたような表情で、俺を出迎えた。
「黒澤さんと清水さんが、お会いになりました」
「へえ。じゃあ、解決したのか?」
廊下を通って部屋まで歩く俺の後ろについて、桜川は事の顛末を楽しげに語った。
「黒澤さんと清水さんは、会ってからものの十五分ほどで、和やかに言葉をお交わしになられました。そして、私達はもう完全に和解した、これからは良い友人同士だと……」
「ま、待て待て」
俺は、桜川の言葉に驚いて、部屋の扉の前で立ち止まって桜川を振り返った。
「二人を、また恋愛関係に戻すんじゃなかったのか?」
「最初はそのつもりでした。黒澤さんも、そうしたいと仰っていましたし……。でも、ある時、清水さんが黒澤さんに何かを耳打ちしたんです。それで、気付くと、良好な友人関係という話になっていました」
「……桜川も、天然らしい所があるよなぁ。それって、どんな話の時だったんだ?」
二人がそう決めたのなら、俺達が口を挟む事はないのだが。何となくその耳打ちは、気になった。
「確か、清水さんが『私の二つの罪……』と話し始めて、少ししたくらいの時だったと思います」
「ふうん……」
だけどいまいち、よく分からない。もしかしたら、二人の間だけに通じる暗号のようなものなのかも知れない。俺は、部屋の扉を開けた。
「清水さんは、まだ上の部屋にいらっしゃいます。『武司に言いたい事があります』と仰っていたので、ご飯の前にお話しされてはいかがでしょうか?」
「ああ、そうする。……今のモノマネ、物凄く似てたぞ」
ありがとうございます、と丁寧にお辞儀をして、桜川は踵を返して歩いていった。俺も、かばんを置いて部屋を出、階段を上った。
清水の部屋……今は桜川のものであるその部屋の扉を、数回ノックする。中から、どうぞ、という声が聞こえて、俺は扉を開いた。
「ここは病院じゃないんだかっ……うおっ」
一歩踏み出した俺は、踏み出した右足の下の床が、前へとスライドしていくのを感じ、何の抵抗もできずに尻餅を突いた。
「あきゅー。武司は成長しません」
俺が踏んだものは、ころころ、と転がって、清水の手元へと納まった。あれは……いつかのミニカーだ。俺は無言で起き上がって、清水に三連続でデコピンをぶつけた。
「武司は酷いです。もうお嫁にも行けません……」
「そん時は清花姉にでも嫁げ。……で、用事ってなんだ?」
まさか、このトラップだけの為に呼んだ訳ではないはずだ。案の定、清水は真剣な面持ちに表情を変えた。
「そろそろ、私は私の仕事に戻らなくてはなりません。ずっとここに居られれば、一番だったのですが……」
ついさっき考えていた事だったので、俺はさして驚かず、そうか、と頷いた。
「はい。そこで、武司が望むのならば……私達の活動に加わっても構いません。代わりに、ここに帰ってくる事も、活動から抜ける事もできなくなります。それでも良いのなら、私達は武司を受け入れます。武司は、功労者ですから」
清水と一緒に、組織へと入る。それは、考えてもいない方向性の話だった。だけれど、答えは容易に出た。
「いや、やめとく。俺には向いてないよ」
「あきゅー。そうですか」
清水は頷いた。
「それで、いつ家を出るんだ?」
「それが、予定が少し早まってしまいまして……日曜日には出る事になっています」
日曜日……日曜日となると、今日が木曜日だから、明後日の次の日だ。
「そりゃ急だな」
「長くお邪魔してしまったのに、ごめんなさい」
清水は、そう言ってから少しして、立ち上がった。
「清花姉さんと桜川さんには、もう事情をお伝えしています。本当に、ありがとうございました」
ぺこり、とお辞儀をしてくる。俺も同じようにして、頭を下げた。
「楽しかったよ。おかげで、色々分からなかった事も分かったし」
「清花姉さんの下着の感触とかですね」
「違ぇよ!」
あはは、と、二人で笑いあった。




