55.
■ ■
誰かに何かをする。それはもしかしたら、子供の頃の夢であるだけでなく、一生の夢だったのかも知れない。ヒーローになりたいという願いは、健全な男子のほとんどが抱く夢らしい。俺にもあった。人から称賛を受け、感謝され、歓迎される英雄の姿を、自分と重ねた事もあった。だが、いつでもその二つの像は、何の一致も見せなかった。
大人になる、とは、子供の頃の夢を捨てる、という事だ。現場長はある時、そう言っていた。同時に、お前の目は光ってるな、と俺を褒めた。だがあれは、今考えてみれば、子供をあやす手であったに過ぎない。
子供の頃の夢には、ロマンやわくわくは詰まっている。だが、それを捨てる事は、決してロマンやそういった物を全て放棄する事と同義ではない。他にも、胸躍る事は、たくさんあるのだ。それが、大人になってからの夢というものだ。
自分の事を立派な大人だと宣言できるか、と言われれば、自信はない。だが今、俺は確かに、子供の頃の夢を、俺の外へと、捨て去った。
<叶わない事なんてない。代償を支払うのならば>
代償を、俺は、支払ったのだった。
飛鳥橋高架下の工事現場に着くと、まだ就業時間でもないのに、作業服の夢花ちゃんと多田野が土の載った一輪車を押していた。
「お、武司。おはよう」
多田野が、まだ出勤服で立っている俺を見つけて、声で俺に手を振った。
「おはようございます。今日は、暖かいですね」
「そうだな……」
俺は、頷いて、着替え場へと足を進めた。二人も多分、そんな俺の後ろ姿を長く追う事なく、自分達の作業へと戻っていった。
夢花ちゃんはともかく、多田野はもしかしたら、大抵の日には俺に先行して作業に入っていたのかも知れない。毎日の事なのに、ちゃんと覚えていないのは、俺が就業時間と仕事は一体のものだと考えを固定していたからだろう。だから、時間外に作業する多田野の姿が目に入らない。俺は、自分よりも多田野の方がずっと立派なのだと思った。
負けじと作業に取り掛かろうとする俺の前に、見知った顔が現れた。
「今、作業中だからな」
「よく言うわね。私はあなたの雇い主の娘なのよ?」
咲歩ちゃんだった。咲歩ちゃんは、俺の姿をじっ、と見つめて、
「貧相な体格ね……」
と、溜め息をついた。
「朝から失礼だなっ!」
「……あなたを勧誘するのは、やめにするわ。あなたよりもやる気があって、役に立ちそうな人材を見つけたのよ」
咲歩ちゃんは腕を組んで、そうそう、そうなのよ、と頷く。
「そりゃ良かったな」
「ええ。やる気もあって、アイデア力も申し分ない……夢花は貰っていくわよ」
「ぐうえっ!」
あまりの驚きに、俺は手にしていたスコップを取り落とした。
「ふふ……。私の素晴らしき探偵雇用力に、返す言葉が思い浮かばないようね」
「いや、その……唐突過ぎてびっくりしただけだ。夢花ちゃんなぁ」
スコップを拾う。大人げなく、取り乱してしまった。落ち着こう。深呼吸を、何度か繰り返す。
「今の給金の五倍で打診する予定よ」
「うべばっ!」
スコップは再び、地面へと転がった。
「ふふ……。私の限りなき探偵資金力に、恐れ入って口も利けないようね」
「それ、探偵関係ないよな……」
「あら、そうでもないわよ。この潤沢たる資金の大部分は、依頼達成報酬だもの」
咲歩ちゃんはそう、鼻を鳴らした。
「大部分って、具体的に何割だよ?」
「は、八……パーセント」
答えつつ、咲歩ちゃんは一,二歩と後ずさった。辺りは穴ぼこで危ないので、俺は咲歩ちゃんの腕を掴んで引き戻す。
「そりゃ、大部分だな。……で、それを言いにきたのか?」
「そうよ。あなたの引き抜きは諦めると、伝えにきたの。……馬鹿ね、セレブへの道を自ら捨てるなんて」
咲歩ちゃんはまた、鼻を鳴らした。
「貧乏人のくせに」
「酷ぇ言われようだな……」
夢花ちゃんの体格を考えると、明らかに道路工事には向いていない。本人の意思次第ではあるが、どちらかと言えば夢花ちゃんが咲歩ちゃんに雇われていく事に、俺は賛成だった。
「分かったなら、怠けずに体を動かしなさい。あんまり怠慢が過ぎるようだと、解雇するわよ」
咲歩ちゃんはそう言いながら、俺の目の前から歩き出して、そのまま去っていった。
早く、作業に取り掛かろう。俺はその後ろ姿を、長くは追わなかった。




