50.清心の発覚
ぱちぱちぱち、と、咲歩ちゃんは手を叩いた。
「あなたにしては、良い推理ね。だけど、私達は違う推理をしているの」
違う、推理? 俺は、つい、重たくなりつつあった体を起こして、そう咲歩ちゃんに訊いた。
「そうよ。……先に言っておくわ。紗季という子は、決して人倫を外れたりはしていない」
とても、信じられなかった。全ての状況は、俺の想像に符合しているのだ。
武田さんが、俺の腕に貼ってあったままのガーゼを、優しくはがしてくれる。どうやら、点滴までして貰ったようで、ガーゼの下から現れた皮膚には、少しの傷があった。その傷を見ながら、咲歩ちゃんの次の言葉を待つ。
「……あの子の家は、五人家族だった。母と父と、そして、兄が二人。まずこれが、あなたの知らない一つ目の事実よ」
咲歩ちゃんは、一つ、指を立てた。
「次に、あの子を巡る家庭環境ね。家庭環境さして悪いものではなかったの。ただ、一番上の兄は放蕩に明け暮れて、消息も分からなくなっていた。家族は皆彼の事を見捨てたけれど、あの子だけは彼も同様に愛していた。これが、二つ目の事実」
人差し指と中指が立ち上がって、「二」を示す。俺は、その言葉の意味がどこにあるのか、必死で探した。
「三つ目の事実。一番上の兄の指紋や頭髪が、二番目の兄……下の兄の家に落ちていたのを、下の兄の死体を発見して捜査に取り掛かった警察が発見した」
今度は、薬指が起き上がる。可愛らしい、小ぶりな指だ。
「警察は、捜査を進めたわ。そして、監禁及び殺人罪で、上の兄には逮捕状まで下りた。その、監禁していたと考えられている時期は、ちょうど彼女がこの町にやってきた頃なのよ」
咲歩ちゃんの声が、少し上ずった。
「つまり……私達の推測はこうよ。あの子は、両親の旅行に際して、下の兄の家に預かられる事になった。けれど、その下の兄の家を訪れた時には、既に上の兄が部屋を巣食っていた。『帰れ』と、上の兄は……もしかしたら下の兄も、そう言ったかも知れない。聡い彼女は、状況をよく理解した上で、二人の兄への愛から、こんな事はやめるようにと説いた。けれども上の兄は、それを聞き入れなかった。追い出された彼女は、行くあてに困って、あなたに助けを求めたのよ」
咲歩ちゃんは、真っ直ぐ俺を見つめて、更に更にと言葉を継いでいく。俺はただ、聞いているだけで、相槌さえ打つ余裕を持ち得なかった。
「それから、幾度か彼女は兄の家へ足を運んだ。新聞では、兄二人の事が世間に洩れてはいないかと調べて、兄二人に心を尽くした。……ある時、兄二人は『仲直りした』と彼女に告げた。ただ、二人分で家はいっぱいだから、今泊めて貰っているところへ居続けて欲しい、と。聡明な彼女は、二人の言葉を怪しんだけれど、結局何もできなかった。……そして、彼女は、その上の兄を追う警察官の銃弾に当たって、命を落とした」
ずん、と、胸の高鳴りが頂点に達したのを感じた。その推理は信じ難くて……いや、信じるに足るだけの説得力はあったのだが、信じる為には、自分や清花姉が極度の鈍感である事を認めなければいけないようだった。もし、本当にそんな事情を抱えて、紗季ちゃんが俺達と過ごしていたのだとしたら……。
俺の両頬に、筋が一つずつ出来た。
「良い涙ね、それは。安心なさい。山口探偵社は、泣き虫でも雇ってあげるわよ」
「こんな時まで……勧誘かよ」
「だって、後悔しても仕方がないでしょう? 全てを知るには、あなた一人ではあまりに鈍いわ」
咲歩ちゃんの言う通りだった。俺は、うなだれて、一通り涙を流した。
紗季ちゃんの両親は、俺がベッドを下りて、休憩室へ戻った頃になって姿を現した。俺は、紗季ちゃんの身に起こった全ての事を伝え、そして、謝罪した。両親は、大きな悲しみの中に、一片の笑顔をたたえて、許してくれた。強い人達だ、と思った。もし、自分が二人の立場だったら、きっと俺を許す事はできなかったと思う。紗季ちゃん本人に至っては、もう、別の種類の生き物なのではないかと思うほどに立派で、俺は自分で、自分が人格的に紗季ちゃんに劣っている事を自覚した。
帰り道は、一人だった。咲歩ちゃんは、もう少し武田さんと話す、と言って、俺を見送った。
今日の事は、自分を見直す、良いきっかけになった。自分が、一人では何も知り得ない小さな存在であること。そして、弱い存在であること。これまで、全く分からなかった自分が、少しだけ見えた。そんな確信を胸に、俺は暗い夜道を、足下に注意を払いながら、歩いた。




