5.
満腹だ。たった一つでもクリームパンを侮ってはいけないのは、中のクリームの質によって腹に溜まる量が違うからである。昔から、安価な物と高価な物は腹が膨れず、その間ぐらいの質の物が一番腹持ちが良い。今食べ終えたクリームパンは、中間程度のお味とお腹の膨らみようだった。
「僕のクリーミィパンが……!」
見上げると、そこには拳を震わせる多田野が居た。
「ああ。中流だったな」
「馬鹿言うなよ、千円するんだぞ!」
「へぇ」
言いながら、俺はポケットに手を突っ込んで、一番最初に指に当たった硬貨を多田野に投げ渡した。
「……何これ?」
受け取った多田野は、それを見て気の抜けた声を出した。
「お代だけど」
「五円じゃ足りないよ! 千円だっつってんでしょ!」
「何だよ。欲深いな」
「あんたがね! ……で、その子誰さ?」
多田野は早くもクリームパンを諦めたらしく、すぐ隣で水筒を飲むさっきの女にその興味は向けられた。
「弁当魔」
「失礼な。ちゃんと断ったと言っている」
「彼女?」
多田野が茶化してそう言ったと同時に、女は鋭い右斜め三十度からの手刀を多田野の肩に直撃させていた。
「違う」
「……なぁ、弁当強盗の、間違いなんじゃないの……?」
「かもな。とにかくそんな訳だから、クリームパンは忘れろ」
肩をさすりながら全身を震わせる多田野は、それでも表情だけは冷静にして、
「まぁ、食べて来たから良いけどさ……」
と俺に顔を向けた。
「さて、私はそろそろ行きたいのだが、行っても良いな」
「ああ。……って、何の用だったんだよ、結局」
「ではな。明日も貰いにくるぞ」
女は俺を無視するように、一方的にそう言って立ち上がり、歩いていった。取り残される俺たち。
「……悪い夢だったと思う事にしよう」
「何か知んないけど、それが一番だと思うよ。……でさ、聞いてよ。現場長の娘さんなんだけどさ、僕にお弁当を……」
残りの休憩時間を、俺は多田野のつまらない話を聞いて過ごした。
ただひたすら、道路に穴を掘り、土を運び、スコップを振るう。少しの疲労にも気を留めず、息が切れてもたった二分休むだけ。それで出来上がるのは、道路工事の下っ端のアルバイトをしていたという切れ端のような名誉と、お金の二つのみ。
何をしているのだろうかと思う。一端の男の子だった子供の頃の俺は、もっと将来に前向きだった気がする。日本国内の内戦に対してだってもっと関心があって、自分が戦争を止めてやるんだと、そんな幼い決心があった。それが今では、道路の幅を広げるというスケールの小さい工事の、一番下でぜいぜいと言っているだけだ。俺はこんなにも、小さい人間だったか。
……二分間の休憩が終わる。俺は思考を止めて、また俺の総力を目の前の土へと向けた。
■ ■
扉を開けると同時に、俺の右足に抱きつく影。
「お帰りなさい。さっそくですが、任務です」
「ただいま。何だよ、ほんとに早速だな」
清水の子供のような動作なり仕草なりは、いちいち可愛らしい。ついつい綻ぶ顔を抑えながら、俺は清水を引き剥がした。
「ミッション・インポッシブル、です」
不可能なのか。
「水が飲みたいのです」
「……清花姉は?」
「清花姉さんに、そんな煩雑な事は頼めません」
靴を脱いで玄関へと上がる。そのまま自分の部屋へ戻ろうとすると、清水がくいくい、と袖を引っ張ってきた。
「今すぐです。あと二秒で枯渇死します」
「急いでも間に合わないな」
「じゃあ二時間です」
極端な話だ。だが、このまま放って部屋へ戻ると、様々な悪い過程を経て、最終的には俺が清花姉に蹴り飛ばされる未来が見えてくる。
「ってか、どこをどうしたらインポッシブルになるんだ?」
「コップが水アレルギーです」
コップを逆さに持って、底に弾かれた水でびしょびしょになる清水の姿が思い出された。
「いえ、水がコップアレルギーなのかも知れません。あきゅー」
「お前がコップ音痴なんだよ」
方向転換して台所へと向かう。何となく足が痛いが、その程度の親切ができないほどではない。
「あ、武司。お帰り。まだご飯、出来てないよ?」
「分かってるよ、ただいま。水を注ぎにきたんだ」
台所へ入ると、大きな鍋を持った清花姉が、ちょうどコンロに火をつけた所だった。後ろから、隠れているつもりで隠れられていない清水の監視を受けつつ、俺は赤いシールの貼られたコップを手に取った。
「何あれ。ねぇ武司、清水ちゃん何してるんだろう?」
即刻バレていた。とりあえず、清水の身元が記憶を失ったスパイだという線は消えた。
「ミッション・インポッシブルだよ」
「ふぅーん……。で、武司はどうして、清水ちゃんのコップを持ってるの?」
指示を仰ぎに振り返る。清水は、大きく髪を揺さぶらせながらぶるぶると顔を左右へ振った。
「何となくだ」
「まさか……清水ちゃんとの関節キスを狙って? その為に家に迎え入れたってこと?」
「違ぇよ! 大体、家に入れたのは清花姉だろ?」
もう一度指示を求めて清水を見る。清水は真剣な表情で、右手を口元、あご、胸、そしてもう一度あごへと順番に動かした。あれはバスターエンドランのサインだ。ちょうどワンアウト一塁で同点の状況だから、ここでのランナーは非常に重要になる。俺は、絶対にゲッツーだけは打つまいと心に強く意識しながら、右手に握りしめたコップを構えた。
「って違ぇだろ! どうして俺はバントの構えしてんだよ!」
「バスターエンドランでしょ?」
「しかもモロバレじゃねぇか!」
清水のさすらい野球監督説は消えた。って言うか、俺は何をしてるんだ。
「別に良いだろ。清水もそんな事、気にしないだろ」
「まぁ、そうだろうけどねぇ」
とりあえず納得してくれた。俺は水を八分目ぐらいに注ぐと、清水の所まで戻った。
「あきゅー。武司は変態さんだったんですね」
ごきゅっ、と一口で半分くらい飲んでやった。
「…………」
「生意気な事言うからだ」
瞳を潤ませてブルブルと震える清水に、俺はそう言ってコップを渡した。すっかり気を悪くしたらしい清水は、無言で俺の前から走り去っていった。
まあ、ご飯の頃には忘れているだろう。よくある事なので、俺はそう思って、そのまま自分の部屋へ戻る事にした。