43.
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次の日、飛鳥橋の工事現場へ着くと、多田野の肩ほどしかない小さな女の子が、多田野と何やら言い争いをしていた。
「どうしたんだ?」
歩み寄って声を掛けると、二人は一斉に俺の方を向いた。女の子の方は、幼いながらにも凛々しい自立した顔付きをしている。長い髪と合わさって、何とも言えない魅力的な外見だ。
「あなたもこの現場の人?」
不機嫌な多田野ではなく、女の子の方が俺を見上げてそう言った。
「あ、ああ。そうだけど」
「そう。……さっき、この人にも頼んだ事だけど、繰り返すわ。工事の音がうるさすぎるの。もっと静かに、慎ましくやって欲しいわ」
多田野が、ぎろ、と顔を女の子に向けた。
「でも、この人はずっとこんな様子なのよ。あなた、同僚としてどうなの?」
「人が黙ってたら良い気に……くそ、武司、何とか言ってやってくれ」
「こいつは確かに、同僚としては不便だな」
多田野がよろめいた。彼の動作は、今日も面白い。多田野はそのまま、どうせ僕なんて、とうつむいてしまった。
「同情するわ。……それで、静かにはして貰えるのかしら?」
女の子は、少し口元に笑みを浮かばせて、そう言った。
「それとこれとは別問題だ。そういう嘆願は、現場長に言ってくれ」
「あら、嘆願じゃないわ。これは命令よ。オーダーよ。あなた達はイエスサーとだけ言えば良いの」
腕を組んだ女の子の表情は、自信に満ち満ちている。何だろう、この状況。
「……私は山口咲歩。聞き覚えはないかしら」
「いや、ない」
「そう、それは残念だわ。これからは覚えておきなさい。あなた達の雇い主の、娘よ」
山口……そう言えば、山口土工という会社名だった気がする。その会社社長の娘、娘。社長令嬢なのだと理解するのに、少しかかった。
「あなたも役に立たないクチね……。折角だから、私の事も覚えなさいな。私は、探偵の真似っこをしている山口咲歩よ。山口探偵社の咲歩。……覚えた?」
そう雄弁を振るう女の子は、しかし俺達の肩ほどの身長しかない。
「社長令嬢か。……真似っこって何ですか?」
「さっきまでと同じように接して欲しいわ。あなたが私に敬語を使うの、かなり滑稽よ」
「待て、僕が言う。こほん……真似っこって何なんだよ」
多田野が、受けた心の傷を癒し終えて帰ってきた。
「あなたは敬語を使いなさい」
「ひ、酷い!」
が、またすぐに帰っていった。
「私は探偵志望なの。ただ、父親が過保護だから……私としては、まともな探偵らしい事は、まだできていないのよ。実績だけは積み上がっていくのだけど」
「山口土工って、そんな大会社だったっけ……?」
「あら、業界最大手よ? ……あ、私の昨日の晩ご飯は、キャビアふりかけ」
ブルジョワジーっぽいメニューだ。それを食べる自分の姿が、ちっとも頭に浮かばない。
「繰り返すわ。もうちょっと静かに工事を進めること。これは、山口土工としての命令よ」
「ああ、現場長に伝えとく。……で、どうしてまた、社長令嬢直々のおいでなんだ?」
そう言ってから、未だに復活しない多田野に、現場長への言伝を頼んだ。多田野はぐったりした様子ながら、小さく頷いて奥へと歩いていった。
「よくぞ訊いたわね。褒めてつかわすわ。……良い? 山口探偵社は仕事を探しているの。どんな事でも良い、調べたい事はないかしら」
社長令嬢……咲歩ちゃんは、そう言って俺の目を真っ直ぐに見た。
「咲歩ちゃん。今、何歳だ?」
「十六よ。でも、舐めないで欲しいわ。実績は神がかり的だから。……あと、ちゃん付けはやめなさい。子供扱いされているみたいだわ」
子供じゃないか、という言葉が出かかったが、俺は何とかそれを留め、代わりに皮肉らしく、
「お父さんの力でだろ?」
と、言った。
「な……。何故、それを?」
「さっき自分で言ってたからな」
「……中々やるわね。気に入った。あなた、山口探偵社に転職しない?」
依然、咲歩ちゃんは俺をじっと、口元に余裕の笑みさえ浮かべながら見上げている。俺は一瞬、答えに詰まった。
「サラリーは弾むわよ。今の三倍でどうかしら」
「さんばっ……」
突然に、給料三倍の衝撃を与えられた俺は、大いに咳き込んで取り乱した。
「平民ってあれね、お金に飢えすぎ」
「誰が平民だっ! ……ってか、遊びに大人を巻き込むなって」
「遊びじゃないわ。お金持ちの道楽じゃ……ないのよ」
最後は少し詰まりながらも、咲歩ちゃんはにやりと笑みを浮かべた。
「それで、答えはどうなの? イエス? アイアグリー? それともラジャー?」
「全部一緒じゃねぇかっ。……断る。探偵業に興味はないし、この仕事も気に入り始めてるからな」
「ふうん……。気に入り始めてる、ねぇ……」
咲歩ちゃんの笑みが、いかにも悪戯っぽく、濃く変わる。まるで子供ではないようだ、と俺は感じた。十六歳と言えば、まだ高校生の若い方の筈なのだが。
「それは嘘ね。顔に出ているわ。……私を信用できないと言うのなら、今の仕事からも解雇するけれど」
「そういうの、権力の濫用って言うんだぞ」
俺はそう言って、咲歩ちゃんの不敵な笑みをかわした。本当になられると困る。
「……じゃあ、何か私に依頼してみなさい。ずばり、解決してみせるわ」
咲歩ちゃんは、俺の頑ななのに気付いたらしく、少したたずまいを正してそう言った。
「そうしたら、あなたも私の下で働きたいと思うようになるはずよ。ええ、間違いないわね」
「あのなぁ……じゃ、多田野のガールフレンドの真意を調べてくれ」
「そういう色もののネタは専門外よ」
わがままな奴である。しかし、多田野の事以外に、自分で解決したいと思わない謎は抱えていない。俺は少し、頭をひねった。
「ただいま。ちゃんと伝えてきたよ」
「お疲れ。あ、俺明日休みたいんだが、現場長に伝えてきてくれるか?」
「こき使いまくりかよっ!」
多田野は大いに憤慨しながらも、来た道を戻っていった。とても良い奴である。
「あなたが山口探偵社に入ったら、あんな感じで私にこき使われるわ」
「今、入る気が完全に失せたんだけど」
「な……。あなた、マゾヒストでしょう? あなた、岡村武司よね?」
咲歩ちゃんは、隠さなくても良いのに、という感情が薄っすらと混じった、驚きの表情を見せた。と言うか、誰から名前を聞いたのだろう。
「違ぇよ! 俺は真っ当な性癖持ちだっ!」
「あら。じゃあ、どんな子が好みなの?」
「そりゃあ、非力でも健気な女の子とか……」
と言った俺の眼前、咲歩ちゃんのすぐ後ろに、夢花ちゃんの姿が見えた。
「えと、ううと、ごめんなさい。私、武司さんを尊敬しています。でも、それは恋心じゃないんです……」
夢花ちゃんはそう言って、俺をきっと見つめた。そこへ、多田野が帰ってきて、
「ロリコンめ。けど、僕は味方だからね」
と、言った。夢花ちゃんの真っ直ぐな目に、多田野の温かい眼差し、そして咲歩ちゃんのじとっと湿った視線。
俺は、挫けた。
「……うわああ!」
俺はそう叫びながら、自分の持ち場へと駆け出した。




