42.
「お茶を持ってきました」
部屋へ閉じこもる俺を心配してか、ちょうど紙とペンを引き出しへ入れた時、部屋をノックする音と桜川の声が聞こえた。俺は、引き出しを念入りに押し閉じてから、
「ありがとう。入ってくれ」
と言った。扉は、ゆっくりと音を立てないように開いた。
「失礼します」
桜川は、カップを二つトレイに載せていた。慌てて、椅子からベッドへと移る。そうしないと、桜川の座る所がなかった。
「お疲れですか? ……あ、棚にあったお茶のパック、勝手に使ってしまいました」
「いや、まだ月曜日だしな。そんなに疲れてないよ。……あれ、安物だから、良いよ」
水出しもできるという触れ込みで、かつ値段も他のお茶パックとは一線を画して安かったので購入したのだが、何をどうやって淹れても臭みがあって、味が悲惨だったので、長く台所棚に封印されていた物だ。
「はい、どうぞ」
だが、桜川が俺に差し出したお茶は、また別の香りを発していた。
「生姜?」
「はい。生姜をすりおろして、ジンジャーティーにしてみました。お口に合えば、嬉しいです」
「いや、美味い。さすがだ」
一口飲んだだけで、生姜の良い香りとお茶の渋味が上手く調和しているのが分かる。元のお茶パックのレベルを考えると、完璧な出来だ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
桜川は、俺が空けたばかりの椅子に腰掛けると、自分もカップの淵に口付けをした。
「このお茶パック、質が悪いだろう? 俺も清花姉も、苦戦してたんだよなぁ」
「そうですね、あまり良質ではありませんでした。……どうしても上手くいかない所は、何か別の物でカバーするしかありません。そこに当たっては、生姜は万能薬です」
カップに注がれたお茶を見つめて、桜川は言った。どこか、遠い目をしているように見える。大切な事を自分に言い聞かせる時のような、そんな瞳だ。
「……私のお祖父ちゃんの口癖でした。生姜は臭みの特効薬、と」
やがて、その瞳は桜川の笑顔と共に掻き消された。俺は慌てて、そうか、とお茶をすすった。
しばらくすると、カップのお茶はすっかり飲み干されてなくなってしまった。だが、俺と桜川の会話は、これまでにないほどの盛り上がりへと変わりつつあった。
「ま、おにぎりの具って言ったら、昆布だろう?」
昆布おにぎりは、擬人化するならば気の合う幼なじみの女の子という感じだ。世話焼きで、話し上手で、聞き上手。そして何より、俺に気がある。
<武司、一緒に帰ろっ。家に帰ってから、美味しく食べてね>
とても良い。少し、エロティックではあるが。
「昆布も良いと思います。でも、一番となると、おかかに決まっているはずです」
「おかか?」
おかかと言えば、旧おにぎり界の帝王である。つまり、ガキ大将だ。
<ああん? 昆布よぉ、女の癖に出しゃばんじゃねぇよ。武司は俺と帰んだよ>
おい、俺の昆布に暴言を吐くんじゃない。心の中の俺が、そう怒った。
<た、武司! ……大丈夫だよ、私は一人で帰るから>
<ほら見ろ。女もこう言ってんだ、さっさと帰るぞ>
<……ぐす>
昆布の、悲しげなすすり声が聞こえたような気がした。
「……おかかはちょっと、暴力的過ぎるな」
「ぼ、暴力的なのでしょうか。……では、ツナマヨはどうでしょうか?」
「ツナマヨ?」
ツナマヨと言えば、現代になって開発された具材の一つだ。今時のツナマヨは、喩えるなら黒いギャルだろうか。
<武司っち、超可愛いぃ~。マジでぇ、そんな女、捨てちゃいなよって感じ~>
俺の好みではない。昆布と一緒に帰りたいと、心の中の俺は答えた。
<た、武司! ……大丈夫だよ、私は一人で帰るから>
<昆布マジ諦め早いって感じ~。ほらほら、ちょっとカフェとか寄りたいんですけど~>
<……うう……ひっく>
昆布の、悲痛な嗚咽の音が聞こえたような気がした。
「……ツナマヨは黒いからダメだ」
「白いと思いますけれど……。昆布の、どこをそんなにお好きなのですか?」
急に訊かれて、俺は軽く赤面した。昆布の好きな所なんて、改めて訊かれると答えるのは非常に恥ずかしい。
「こう……純真無垢で、一途な所かな」
「……武司さんのおにぎり論がとても複雑だという事は分かりました」
桜川はそう、笑顔で溜め息を吐いた。
俺が一方的に作っていた、桜川への疑いによるわだかまりが一時的にでも解消されて、距離はある程度縮まったように思われた。桜川と話すのは楽しい。
「風呂、準備してくるな」
「いえ、私がやります。難しいとは言っても、そろそろ覚えないとご迷惑をお掛けしてしまいますから」
桜川がそう立ち上がる。ただ一つ、俺を慕っているという言葉だけが、桜川の異常な所だった。




