41.
五分ほど、今扉のすぐ向こうに居るらしい悪霊の事を考えた。しかし、いくら考えても心当たりはなく、思考を重ねる内に蘇ってくる紗季ちゃんの記憶がひどく強烈で、気が付けば俺は紗季ちゃんの事を考えていた。
<私、何だかそんな気がしていました。私にはいつか天罰が下るんだって、思ってました。……えへへ。ご迷惑をお掛けして、ごめんなさい>
余裕のなかった紗季ちゃんの死直後には聞き流してしまっていたが、最近になって、その最期の言葉が変だった事に気付いた。天罰が下る。それは、一体どんな意味で紡ぎ出された言葉なのだろうか。もしかすると、深い意味はないのかも知れない。だが、そうでない可能性もある。そうでないとすれば、紗季ちゃんは何をしたと言うのだろう。あるいは、家出をしてきた、とかかも知れない。だが、そうでない可能性もある。そうして考えていくと、その可能性の分岐は無数にわたっていた。
改めて、今、紗季ちゃんの行動を考え直してみる。何か、おかしい所は、なかっただろうか。初日の夜の早起きシャワー、新聞を購入して読んでいたこと……。どちらも、目を引きはするが、これはおかしいと言えるほどの要素を含んでいる訳ではなかった。
「くくく、しかしあの詩帆という女、あれは中々の良い女であるな」
「何の話だよ、突然」
いつの間にかトイレから帰ってきた(どこでやってきたのかは知らないが)爺さんは、やけに表情を崩して言った。
「器量は抜群、料理はお前の姉よりも上手い。しかし慎みも兼ね備えておる。くく、我が生きていたら、嫁に取る所よ」
「……何が言いたいんだよ」
「ふむ、察しが良いのは良い事であろうな。つまり、あれがお前を慕うというのは、違和感の塊でたる」
それは、ずっと俺の疑問の一つだった。桜川が俺を慕う理由は、未だにしっくりと来ていない。恋や愛はそんな物だ、と思い込んでしまえばそうかも知れないが、普通に考えれば異常である。たくましい男なら、他に居る。優しい男なら、他に居る。金持ちな男なら、他に居るのだ。
「……ああもう、んな事は後だ! ここから出ないと、何にもできねぇよ」
「知恵の無い男よ。我、霊の正体見たり。あとはお前一人で解決するがよかろう。我には『でえと』の約束があるのである」
声と同時に、爺さんの姿はふっ、と消えた。
……何となく苛立たしさが残るが、最初から居なかった奴だと早く忘れて、対策を考えよう。俺はそう決めて、爺さんの居なくなったベッドに腰掛けた。
ドアを押さえつけている力をどけるには、どうすれば良いのか。未知も未知、難関も難関の部分で、いくら考えても答えには至らなかった。
ただ唯一言えるのは、爺さんがああやって居なくなった以上、さほどの危険な状態ではないという事だ。爺さんは別に無責任な奴ではない。ああ言うからには、多分身も凍るような恐怖というラインからは遠い所にあるはずだ。
(電話でもしてみるか)
清花姉や清水は携帯電話を持っていないので、掛ける相手は自ずと限られてくる。警察や消防に掛けるのは最終手段という感じがするし、ここは……。
アドレス帳から対象を選んで耳に当てる。しばらくの呼び出し音の後、何故か扉のすぐ向こうから壮大なオーケストラ音楽が流れてきた。
「げ」
ついでに、聞き覚えのある声も。俺が電話を掛けた相手は、多田野である。
助走をつけて一気に押すと、扉は簡単に開いた。
「……あ。と、突然開けるなよっ」
「お前、人の家で何してるんだよ」
そこには、扉に押されて尻餅をついた多田野が居た。
「いや、僕だけじゃないんだけどね。結婚するって聞いたからさ。現場長とかとお祝いにきたってわけ」
「しねぇよ! ……で、ここで何で扉押さえてたんだよ」
「押す扉かと思ったんだよ。騙すなよっ」
ひどい話である。だが、大事に至るような事でなくて、良かったとも思う。
「でも、なんか冷たい雰囲気を感じたんだよね。この家、訳ありとかなの?」
……とりあえず、多田野の頭を小突いておいた。
台所へ入ると、小さいテーブルを無理に囲んで、清花姉に清水、現場長と工員が二人、それから桜川が座っていた。何人かは、テーブルに手をつく事すらままならなそうだ。
「おう。お前もついに結婚か」
「とんでもないっす。まだ全然ですよ」
現場長の表情は、いつになく緩んでいた。清花姉に、ある事ない事吹き込まれたのも間違いなさそうではあったが、和気あいあいとした雰囲気に一つ息をつく。
「あ、現場長に結婚を伝えたのは僕だよ。後で感謝してね」
多田野は後で殴ってやろう。俺はそう思いながら、現場長や工員との会話へと加わっていった。
一時間ほど、集まった人達と共に小さなパーティを楽しんだ。清花姉は俺の仕事仲間に初めて会って、ほうほう、と品定めするような目で彼らを見つめていた。ぜひ、酷い目に遭わないよう、同僚達には注意して貰いたいと思う。清水はいつになく穏やかな表情で、全体から少し離れた場所で俺達を見守っているようだった。桜川も笑顔を絶やさず、いつものように工員達の輪の中心となって、パーティを盛り上げた。
そんな盛況のままにパーティはお開きとなり、工員達が帰ると、清花姉もそろそろ行こうかな、と言って荷物をまとめ出した。
「今日は、色々楽しかったなぁ。武司の友達もいっぱい見れたし。あの多田野って人、騙しやすそうだよねぇ」
その作業も一段落ついた所で、清花姉は台所の椅子に座って言った。
「多田野を騙しても、パンしか出ないぞ。良くて中流のだ」
「それは、ちょっとしょぼいねぇ。……ね、武司」
「ん、何だ? 結婚おめでとうはもううんざりだけど」
真剣な眼差しの清花姉に、俺はそう釘を刺して笑いながら、反対側の椅子へ座って向かい合った。
「ふと、一ヶ月で色々変わっちゃうんだなぁ、って思ったんだ。清水ちゃんが来るまでは、私と武司だけで暮らしてたんだよね。それはそれで、生活として成立してた。そこに清水ちゃんが来て、賑やかになって。紗季ちゃんが来て、もっと楽しい場所になって。だけど、紗季ちゃんは居なくなっちゃって、今、私と武司は別の家に暮らしてる。……色んな事が起こり過ぎたな、って。そう思わないかな? 私は思う。変わるのは良い事だと思うけど、変わり続けて行くのは……辛くて、怖いよ」
清花姉の目が、テーブルの下の陰を突き刺していた。声も、震えている。
「そうだな……確かに、色々変わったな。でも、清花姉は、変わってないだろう?」
ベストの回答を見つけられず、俺は思い付いたままに、そう言葉を発した。清花姉の目線が、すっ、と俺に向いた。
「そうだねぇ、私は同じかも知れない。だけど……武司は変わってるよ。前よりもずっと強くてたくましい、でも、余裕のない目になった。……辛いよ。何にも変わらない私が、そんな武司を見るのは」
余裕のない目……。俺はつい、手で目を確かめた。もちろん、そんな事をしても、目の状態は分からない。
「色々、思う事があるのは分かるよ。何も変わらない私がおかしいのかも知れない。だけどね、武司。お姉ちゃんは……」
がたっ、と椅子を鳴らして、俺は立ち上がった。無音の中を、清花姉へとテーブルを迂回して歩み寄る。そのまま俺は、後ろから清花姉を抱き締めた。
「武司……」
辛かったのか、それとも愛おしかったのか。清花姉が哀れに思えたのか、あるいはそれ以上の言葉を聞きたくなかったのか。どうしてそんな事をしたのか分からないが、俺はずっと、後ろから清花姉を抱き締めていた。
ごめんな、清花姉。俺の心には、ただそんな言葉だけが、ぷかりぷかりと所在なく浮かんでいた。
清花姉達を見送って部屋に戻った俺は、早速、安価なコピー用紙を机に置いて、ペンを握った。
まず、何を解決しなければならないのか。何を解決したいのか、だ。問題は山積していた。その全部を一度に解決しようとすると、やはり無理が生じてくる。
(まずは……紗季ちゃんの事か)
人の生命に関わる事だから、最優先しなければならない。まだ俺は、紗季ちゃんの兄にも両親にも、彼女の死を伝える事はできていなかった。しかし、道筋が立つのだろうか。何の手掛かりもない中で……。
そう考えた時、俺の中で一つの閃きが起こった。
<遺体を病院へと運んでおきますから、落ち着いたら取りに来て下さい>
俺はあの時、無感情な彼らの言葉を心中罵った。だが、その言葉すら今の今まで忘れていた俺には、そんな権利はない。一体俺は、何も見えずに何をしようとしていたのだろう。
紗季ちゃんの死体に会えば、あるいは何かヒントを得られるかも知れない。病院の人が両親の居場所を突き止めている可能性だってある。次の日曜日を待たずに、明日は無理でも明後日臨時に休みを貰って、紗季ちゃんの体を受け取りにいこうと決めた。
(それから、桜川の事だ)
俺はそう、ペンの先を紙に走らせた。
桜川の態度は、やはり異様だ。とってつけたような理由で俺を好きになったと言い張っている。そのまま俺の家に住み込むなどというのは、常識家であるはずの桜川としては、異常な行動だ。態度も行動も異常だとすると、そこには何かの理由があるはずなのだ。それが俺にも解決し得る事ならば、友人として協力したい。
こちらは、根強く本人に訊くしかなさそうだった。
(……外来の、幽霊)
爺さんは、最初の方は深刻で、後から和やかに帰っていった。多分、途中で『外来の幽霊』なるものが居なくなったのだろうと思う。これも解決しないと、俺に安眠が訪れる日は遠そうだ。
(清花姉の事も)
清花姉は、最近どこか不安定な所がある。父母との軋轢、溝を無くす事ができれば、ずっと幸せに生きていけると思う。その手助けをするのは、弟として当然の事だ。
(清水……そして、俺の事か)
俺は筆を止めた。エー地区とビー地区との話し合いは、大方上手くいっているらしい。ただ一つ問題なのは、持ち出されたバイオ兵器の種が小さくて小分けもできるらしく、既に全てを取り返す事は困難になっている、という事実だ。つまり、力のある研究者へと持ち込まれれば、数十年の時を経て兵器として開花してしまう可能性がそれなりにある、という事である。清水の仲間達はその阻止へ向けて全力を尽くしてはいるが、もう拡散は止められないほどに進んでしまっているらしく、止めるには至らないそうだった。
根気よく探すしかない、と、清水の仲間達は『兵器回収機関』を設置し、そのメンバーを内外から募集してバイオ兵器の回収を行う事にした。
……そして俺はそれに、わくわくしていた。不謹慎なのは分かっているし、子供っぼいと言われても仕方ないと思っている。だが、その説明の中の一単語一単語は、俺のロマン中枢を強く刺激した。
俺は、どうしたいのか。それも、俺の課題の一つだった。
(……まあ、それは最後だな)
改めて書き出してみると、難題が多く揃い過ぎているように思えた。だが、仕方がない。一つずつ、解決していかなければならないのだ。
ともかく、まずは紗季ちゃんの事だ。俺はそう、目を見開いて、自分の書いた文字を見つめた。




