4.
「ごちそうさまでした」
二十歳過ぎの男が、姉と居候に声を合わせて合掌する。客観的に見ると俺は何をしているんだと言いたくなるが、今の俺は食欲の満足感の為にとても主観的に出来上がっていた。
「美味かった。特にカニ玉は最強だったな」
「私が作ったんだから、当然でしょう? ね、清水ちゃん」
「はい。私は、カニ玉丼に心奪われました。あきゅー」
それはほぼ天津飯だ。
「だよね。清水ちゃんは素直で良い子だなぁ」
「はい。武司よりも良い子です」
「数倍ね」
何やら大変に失礼な事を言われている気がする。一言何か言ってやろうと身を乗り出した時、ポケットの携帯電話がメールの受信を知らせて鳴った。
「まだその、センス無い着信音使ってるんだ?」
「放っとけ」
携帯電話を開く。メールの着信音には、数十年前に、人々に人生とまで呼び崇められたゲーム作品の挿入歌を使用していた。少しのほほんとしてしまうのが難点ではあるが、俺にとっては素晴らしい曲だった。
受信ボックスを開くと、確かにそこには新着メールが一件表示されていた。送信元は、二日前の俺。最近の携帯はスマートフォンがあった時代よりもだいぶ低機能だが、スマートフォンの時代にはなかった時間指定メールが送れるようになっていた。送信したメールはサーバに保管されて、向こう一年間の指定した日と時間に相手に届くという仕組みである。これを俺は、遠回しなアラーム機能として用いていた。
「うがあ。忘れてた」
「何を? 呼吸?」
「んなもん忘れるか。……明日、五時からなんだよ」
ちょっとした工事の予定の都合だった。迷惑な話だが、給料の為にも文句は言っていられない。
「そっか。帰りはいつになるの?」
「いつもより二時間早い」
「という事は……五時ごろかな」
俺は頷いた。道路工事の頻発するこの街で、俺は二つの工事現場を掛け持ちしていたが、その内明日行く工事現場は『飛鳥橋高架下』である。下っ端の俺は詳しい説明を受けていないが、道路の幅を広げる工事らしい。そして飛鳥橋高架下は、もう一つの工事現場に比べて疲れる仕事場だった。
「ふぅん……。もう九時だけど、寝ちゃう? 清水ちゃんと」
「寝ねぇよ!」
「そう? 明日辛いと思うなぁ」
清花姉は悪戯っぽく笑う。恐らく、と言うより間違いなく俺の言いたい事は伝わっているので、俺は清水の頭を軽く撫でてやったあと、お休み、と言った。
「はい。永遠にお休みなさい、武司」
「……清水にこんな言葉を教えたのは清花姉だな?」
「えー? 間違いなく」
認めるのか。純粋だった清水が、清花姉の手によってどんどん悪質化しているように思う。
まあ、良いか。明日の事を考えると、何となく目蓋が重たくなってきた。
「期待してないけど、俺が寝てたら起こしてくれ」
「うん。武司が私を起こしてくれたら、私が寝てる武司を起こすよ」
ドッペルゲンガーか。そう思ったが、俺は突っ込む事もなく、ふらふらと自分の部屋へ戻って敷きっ放しの布団に入った。
■ ■
二週間ほど前まで。飛鳥橋高架下では、一人の幼い少女が働いていた。
その子は、とても儚げだった。無口で、非力で、それでも真面目で。誰も助けてはくれない職場でも、綺麗な髪が黒くくすんでしまう場所でも、少女は懸命に動き回っていた。だけど誰も、手を貸す事はなかった。
俺も皆も、自分の事で精一杯だったのだ。少女はある日突然、来なくなった。来なくなっても、作業の能率はほとんど変わらなかったけれど、俺の心はわずかに重くなっただけだったけれど、それでも記憶のどこかに、今でもずっとその少女の姿が残っている。
「……はぁ」
工事の、昼の休憩時間に、俺は清花姉の用意してくれた弁当を広げながら溜め息を吐いた。煙ったい現場から少し離れたベンチに座っているのだが、それでも何となくアスファルトの香りが流れ込んでくる。
「また、暗いねえ」
「関係ないだろ」
隣から顔を出してくる男、多田野から、俺は少し離して座り直した。多田野は俺と同年代の男の友人で、職場一口が軽い奴だった。
「何々? またピーマンが入ってたとか?」
「んな理由で怒るか。これまでにもねぇよ」
「んじゃあ、どのおかずが原因なんだろう……」
もちろん、どのおかずも原因ではない。だが俺はそれに構わず、割り箸を丁寧に二つに割った。
「おい。ちょっと良いか」
近くから、無愛想な女の声が聞こえた気がする。恐らく道に迷ったとかだろう。だが、空腹を満たす方がよほど大事なので、ここは多田野に任せて食事に入る事にする。
「おいっ。呼んでいるんだ」
「多田野、ちゃんと相手しろ」
親切心のない奴め。目の前で人が困っているのに、それを無視するとは。
「……多田野というのは、もしかしてアレか?」
女がすぐ前に立ったので、仕方なく俺は顔を上げて女の指し示す方を見た。
「武司ぃ、助けてくれぇー!」
多田野は現場長に引きずられていた。またサボっていたのだろう。多田野がこうして現場長に連れ去られていくのは、ここではよく見る光景の一つだった。
「ああ、アレだ。残念だったな」
「いや別に、私はお前で構わないんだが」
「俺も待たせてる奴が居るんだよ」
大切な俺の昼食休憩を、あまり無為に消費したくはない。
「嘘をつけ。さっき食べようとしてただろう」
「ちっ。バレたか」
「じゃあ、話を聞いてくれるな」
女は十九歳ぐらいで、背の高く、短い黒髪をしていた。中々に可愛らしい顔の作りに少しハッとした俺は、渋々頷く。
「よし。ありがとう。とりあえず、隣に座っていいか」
「ああ、どうぞ」
「ありがとう。弁当を食べても良いな」
「ああ」
女は、ベンチの強度を少し気にしながらも腰を落ち着けると、黒色の箸を懐から取り出して、すぐその隣に置いてあった弁当に手を付けた。ご飯、ウインナ、昨日の残りのカニ玉……。
「っておい! それ俺のじゃねぇか!」
「うむ。だからそう断っただろう?」
女は食べるのを止めない。俺が唖然と見守っている内に、俺の一番のお気に入りである冷凍食品のエビフライが彼女の口へと運ばれていく。
<ごめんなさい武司さん。私は、もう、奪われてしまいました……>
エビフライの哀しい断末魔が聞こえた気がした。
「返せっ!」
俺は無理矢理に、女から弁当箱を取り上げた。せめて半分は残っていてくれ、と思って見た弁当箱の中は、ご飯一粒すら残っていないほど丁寧に平らげられていた。
「美味しかったぞ。感謝する」
「……ぐは」
俺の貴重な昼食が……。
「何を睨んでいるのか知らないが、私はちゃんと了承を取ったからな」
取ってない。取っていたとしてもそれは詐欺だ。
「くそう……」
俺はそうして、多田野が残していったパンを見た。一つの黒い考えが、俺の脳によぎった。