38.
お昼を過ぎても、俺の仕事場は変わらない。移動の手間がなくなっただけでない、とても新鮮な雰囲気に、俺の心は飽きを全く感じずにいた。
「そういや、夢花ちゃんから聞いた面白い話があるんだけど、聞きたい?」
「そうだな。聞きたい」
「よし、じゃあまずは頭を下げなよ」
目の前で偉そうに腕を組む多田野目掛けて、俺は頭突きを繰り出した。
「ぐぼあっ」
多田野に二百ぐらいのダメージを与えた気がする。
「何すんだよ! もう、教えてやらないからなっ」
「良いよ、本人から聞くから」
「な、なにぃ……」
単純過ぎる奴である。そんな所が便利で憎めないのだが。
「ううと、サボっていないで働いて下さい」
土を運びながらそう言う夢花ちゃんに、俺達は二人揃ってゴメンなさいと謝った。
■ ■
夜道を、工事現場から家へ歩いていく。前とは違う道だが、毎日通る行き道と同じなので、必然景色は見覚えのある物ばかりだ。とは言え、どんな日でも常に良い匂いが漂ってくる家があったりと、新発見も数少なくはない。改めて歩くと、この街の新しい性格、新しい姿に気付けたような気がして、妙に心地良かった。
まだ、過度の思考が頭痛を誘う、謎の症状はなくなってはいなかった。だが、その程度はかなり軽くなっていた。深い悩みや、哲学的な難問に関しても、長時間に及ばなければ対応できる程にだ。俺にとって、これは大いなる成長であり、また、自分の弱味について逃げられないぞという檻の形成でもあった。
いつも、家に帰る時には、三つの存在を思い出した。一つは、清花姉、一つは清水。この二人は、もう家には居ない。俺を出迎えてくれていたその顔達は、既に俺の手元にはなかった。だが、問題はその先にある。
<あ、武司さん。お帰りなさいです~>
俺は立ち止まった。問題は、三人目、紗季ちゃんについてだった。彼女も、清花姉達と同様に、家で俺の帰りを待ってはいない。しかし同時に、紗季ちゃんはこの世にさえ、存在してはいないのだった。身の丈もわきまえず、預かったせいで。彼女の母や父や、兄や、友人や恋人、あるいは先生や後輩に至るまで。全ての人から、紗季ちゃんという存在を奪ってしまったのだ。そう考えると、俺の心にざわつかない日はなかった。
どう、償えば良いのか。誰に、償えば良いのか。何も、分からなかった。ただ、漠然と、罪の意識だけが俺を襲っていた。
そうして今日も、家に帰り着く。
「ただいま」
「あ、武司。お帰り」
扉を開けて中に入ると、台所からひょこっと、見慣れた顔が出てきて俺を出迎えた。
「あのなぁ……。自分で、『恋人二人の邪魔はできない』とか言って出て行ったんだろ?」
「む。お邪魔なの? やっぱりもう恋人だったの?」
「い、や……んな事はないけど」
清花姉の表情は、「じゃあ良いじゃない」と述べていた。やはり、口の上手い姉である。
「清水は?」
「もちろん来てるよ。今は、詩帆ちゃんと一緒に武司の部屋に居るんじゃないかな」
詩帆ちゃんとは桜川の事である。いつも上の名前で考えているからか、下の名前はまだあまり印象がないのだが。
「……って、どうして俺の部屋なんだよ」
「そりゃあ……ほら、女の子があられもない姿になっている本があるって、私が教えたから」
「何してんだよっ。そもそもねぇよ!」
本当である。と言うか、あったとしても清花姉にだけは絶対に見つからないようにしておくと思う。こうなるからだ。
「……にやり」
清花姉の表情はまた、「じゃあ良いじゃない」と伝えてきた。全くもって、付け入る隙のない姉である。
「いやいや、ない事勝手に吹き込まれてるんだから、良い訳ないだろっ」
「短気ねぇ。そのぐらいの羞恥なら、興奮に変えられる心の余裕を持ちなさい」
それは変態である。とにかく、ここで清花姉とお笑い問答をしていても何も解決しないので、俺はさっさと部屋へ戻って、二人を諭す事に決めた。
「うんうん。それが一番だよね」
「心を読むなよ!」
にやにやと笑う清花姉を背に、俺は廊下を進んだ。




