33.
何となく、嫌な風が吹いていた。不吉を呼ぶような風鳴りの音は、飛鳥道からいつもの帰り道へと合流して歩く俺の弱気から聞こえてくるものらしい。午後六時と、いつもより少し早い時間に帰路を歩んでいるからそんな事を思うのだろう、と、俺は無理に自分を納得させた。
「あ、武司。居た居た」
そんな俺の進行方向から、ひどく聞き慣れた声が俺を呼んだ。
「あきゅー。お帰りなさい」
「まだ帰ってないけどな。買い物帰りか?」
「はい、そうです~。この辺りを通っていれば、武司さんに会えるのではないかと思いまして」
俺の目の前には、スーパーマーケットの袋をそれぞれ両手に計六袋提げた、清花姉に清水、それから紗季ちゃんが居た。その内二人はともかく、清水が外でこうやって普通に歩いているのは、何となく変な感じがする。
「もうご飯は作ったんだけどね。これは、明日からの分」
「へぇ。そんなに要るものなのか」
「そうねぇ、武司が食べ盛りだから」
もうそんな時期はとっくに終わっていると思う。
「あ、あの事、まだ二人には話してないからね。そういう大切な事は、自分で話さないと」
「……まぁ、そうだよな」
俺は素直に頷いた。そこに、静けさを切り裂くようにして、「止まれ、止まれっ!」という怒鳴り声が響いた。続いて、いかにも怪しい黒装束の男が一人、俺と紗季ちゃんとを結ぶ線のちょうど真ん中辺りに走り込んできて、俺達をきょろきょろと見比べた。俺は、とっさに危険を感じて、紗季ちゃんを守りに男の脇を駆け抜けて、紗季ちゃんの近くへと走った。
その瞬間、ダン、と、心ない音が辺りに響いた。音とは裏腹に何の被害も受けなかった黒装束の男はまた逃走を始め、凶弾の主がすぐにその男を追って、俺達の隣を駆け抜けた。
そしてどさり、と、買い物袋の落ちる音が聞こえた。
「さ、紗季ちゃん!」
そのまま後ろに倒れそうな紗季ちゃんを、何とか腕で支える。紗季ちゃんのお腹には、既に溢れるほどの赤が満ち満ちていた。
「清花姉、救急車だ! 早く!」
「あ……ああ……」
素早く動く清花姉とは対照的に、清水がその場にうずくまる。俺はそれに構う間もなく、かばんから少し汗で汚れてしまったタオルを出して、紗季ちゃんのお腹へとあてた。血が血を呼び、タオルがどんどんと血を吸っていく。
「十分ぐらいで来るって、救急車」
「くそ、そんなの間に合わねぇ!」
「……そんなに押さえると、痛いですよ」
口からも血を流しながら、紗季ちゃんが口を開いた。
「私、何だかそんな気がしていました。私にはいつか天罰が下るんだって、思ってました。……えへへ。ご迷惑をお掛けして、ごめんなさい」
紗季ちゃんは俺達が止める間もなく、更に大量の血を吐き出したかと思うと、ぐったりと俺の腕に体重を預けた。揺さぶってみても、お腹を押さえる力を少し増してみても、反応はない。
「紗季ちゃん。おい、紗季ちゃん!」
清花姉は既に目を閉じていた。だから俺だけがただ一人、無力にも紗季ちゃんの名前を叫び続けた。
短時間の大量出血によるショック死。十五分待ってやっと現れた救命隊の人々は、ほんの少し紗季ちゃんに触れ、俺達に何があったのかを聞いただけでそう判断した。
<遺体を病院へと運んでおきますから、落ち着いたら取りに来て下さい>
彼らの対応は、ひどく場慣れしていて、故に事務的で冷たかった。警察を呼んで、わずか三十分ほど状況の説明を聴取されると、俺達は早く家に戻るようにと指示された。
紗季ちゃんの荷物と、全く虚ろになってしまった清水の荷物を俺が持ち、清花姉に無理をして二つの荷物を片手に持って貰い、もう片方の手を清水と繋いで貰って何とか家へと帰り着く。意味もなく台所の椅子に座った俺達は当然のように、無言だった。
何の整理もつかない頭を必死で冷やすと、やっと湧いてきた焦りの気持ちと悲しみの衝撃が胸を襲った。突然に、急に、紗季ちゃんは死んだ。瞬く間に居なくなった。手元には、彼女がつい三十分も前に持っていた袋があって、その体温がほんの少し残って、俺に移ってきているようだった。
彼女の帰りを待つ両親に、あるいは彼女が現れずに心配している兄に、俺達はどう説明すれば良いのだろう。勝手に、彼らの何の了承も得ずに預かった結果失ってしまった紗季ちゃんという女の子を、俺達はどう償えば良いのか。
「……あきゅー。ゴメンなさい。こんな時ですけれど、時間がありません」
知らない間に顔を真っ直ぐに持ち上げていた清水が、いつになく綺麗な発声でそう言った。顔を上げてその顔を見ると、その表情は別人かと見紛うほど硬かった。
「私の運命は、奇跡的にあなたに繋がっていました。武司」
「……何だよ、何言ってるんだ? 水なら、自分で注いでこい」
「ちゃんと聞いて下さい、武司」
強い声で言われて、俺は視線を下げた。
「…………。武司は、仕事を辞めるのですか?」
「ああ」
「良かった。では、武司は、兵器開発を止めに行く気で居たんですね。ありがとうございます」
清水があのメールの事を言っているのは明らかだった。どうして、その事を知っているのだろうか。失意の俺に、一体何を話そうというのか。
「そのメールの送り主は、私です。……全部、思い出しました。私がやるべき事も、全て。これまで、ありがとうございました。私は、行かないといけません」
清水はそう言って椅子から立ち上がり、そのまま歩き始めようとしたが、清花姉に腕を掴まれて清花姉を振り返った。
「……ね、それ、明日じゃダメかな? 私、ちょっと、寂しいから」
「あきゅー。時間がありません」
「何か知らねぇけど、事情ぐらい話していけよ。俺達に恩があるんだろ?」
俺が困憊した声でそう言うと、清水はしぶしぶ椅子へと座り直して、ゆっくりと口を開いた。




