3.
暗い、清花姉の部屋へと入る。散らかってはいないが、窓がない為に真っ暗で何も見えない。まずは照明から下りている紐を引こうと、俺は手を伸ばした。そんな俺の手に、何かふにょっとした布が触れる。
(……ふぅ)
落ち着け、と心に命じる。落ち着けば、いくらふにょっとしてようが、その用途が何であろうが、ただの布切れに過ぎないはずだった。落ち着け、俺。
「ただいまー」
「うおぉうい!」
後ろから帰宅した清花姉の声。ちなみに清花姉の部屋は玄関の直近にあり、買い物を終えた清花姉が部屋に入る確率は大体五割ほどである。今のこの状況はかなり危険だ。だが、残念な事に俺の体にはエマージェンシー機能は付いておらず、むしろ硬直してしまう。
「お帰りなさいです」
よし、清水が来た。何とか、俺が落ち着くまで時間を稼いでくれ。
「ただいま、清水ちゃん。……どうして濡れてるの?」
「武司の言う通りにしたら濡れました」
「ふぅん。その武司は?」
「清花姉さんの部屋へ入っていきました。特に意味もなく」
お前の為だ。と言うか、俺を助けようと時間を稼ごうとしている様には見えず、むしろ俺を陥れようと清花姉を誘導しようとしている様に見える。いや、間違いなくそうだ。
「へぇー。……清水ちゃん、荷物台所に運んどいてくれる?」
「あきゅー。了解ですっ」
「どうしてだよ!」
しまった。不条理に耐えかねてつい声が出てしまった。早くも、清花姉がかつかつ、と部屋の方へと歩く音が聞こえてくる。
がら、と障子が引かれ、廊下からの光が俺に降り注いできて、俺はついに冷静さを完全に失った。
「…………」
無言の清花姉の顔に、薄桃色の布切れが柔らかくぶつかって落ちる。俺は何故か、清花姉に手に触れていたそれを投げ付けていた。
「……あー。うん。そういう事なんだ」
俺は、死を覚悟しつつそう言った。せめて安らかな死に方が良いな。窒息死とか撲殺とかじゃなくて。薬殺とか。
「扼殺で良いよね、武司?」
「何だっけ、それ」
「首絞め」
清花姉が何の迷いもない笑顔を見せてそう言った。首絞めは窒息死である。絶対に避けなければいけない。
「待て。こうなったら楽に死にたい」
「無理」
交渉に失敗する。ならば、と次の作戦を俺が考えるよりも先に、清花姉は俺の後ろに素早く回り込んで俺を羽交い締めに拘束した。
「うちの弟は、いつの間に、姉の部屋で下着を物色するような、子に、なっちゃったの、かな!」
「ぎ、ギブギブ! 本気で絞まってるっ!」
清花姉がぐいぐい、と力を込める度に、俺の頚動脈がどんどん圧迫されていく。
「清花姉さん。待って下さい」
現実からどんどん遠ざかる俺の意識は、その視線に薄っすらと清水の姿を捉えた。ああ、助けてくれるのか。やっと。ちょっと遅いけど、その気持ちが嬉しい。
「これを使いましょう」
次の清水の声と共に、俺の首への圧力が少し和らいだ。よし、その調子だ。
「おっ、麻縄かい。気が利くね」
「はい!」
「うおいっ!」
俺は、自力で無理矢理に清花姉の拘束から逃れ、追いすがる手をすり抜け、俺は清水に迫った。
「お前は俺を殺す気かっ!」
「当然です」
「……ぐは」
尻に敷くどころか、縄で絞めようとしている。これは由々しき事態だ。お仕置きをしないといけない。俺は中指を親指で折って力を溜めると、それで清水の綺麗な白いおでこを弾いた。
「あきゅー。……痛いです」
「俺は心が痛い。良いか、だいたい、俺はお前の為に……」
俺の言葉は、後ろから思いっ切り俺の背中に入った清花姉の蹴りによって中断させられた。
「清水ちゃんに暴力はダメよ」
「弟になら良いのか……?」
「これは正当防衛よ。自衛隊でも認められてるっていう、集団的自衛権?」
認められていない。
「くそぅ……」
「武司、噛ませの雑魚敵みたいになってるよ」
「清花姉のせいだろっ! ……とりあえず、清水の替えの服、出してやってくれ」
再び軽くくしゃみをした清水を見て、俺はもとの目的を思い出して言った。
「どうして?」
清花姉が、ショートとロングの中間ぐらいの髪を整えながら訊き返してくる。清花姉の耳はくしゃみが聞こえないほどに節穴なのか。
「他の服は全部洗濯してるんだろ?」
「……昨日取り込んで渡したところなんだけど」
「えっ?」
俺は、清水を見た。清水はてへっと舌を出して、
「ついうっかり、忘れていました。あきゅー」
と可愛く首を傾げて笑っていた。
「……ぐは」
俺はその場に倒れこんだ。何か薄い布が俺の枕になってくれて、とても心地良い。いっそこのまま寝てしまおうか。
「清水ちゃん。踏みにじって良いよ」
「わーいです」
ぐりぐり、と清水の小さな足が俺の横向きの顔を押し潰してくる。結構な体重をかけてきているようだが、所詮小柄な清水だから、痛いと言うよりは気持ちいい。屈辱的ではあるけれど。つい、顔が綻ぶ。
「はぁ……ついに武司が壊れたか……」
「壊れてねぇやい」
強く踏まれる度に、顔の下の柔らかい布に頬がすり付けられて気持ちいい。何だろう、この布。
「それ、私の下着なんだけどなぁ」
俺は目を見開いた。ピンクの……フリフリ。
俺はそこで意識を失った。
次に目覚めた時、俺はピンクのフリフリの上で清水に踏みにじられていた。
「……どれくらいこうしてた?」
清水の隣で、軽く微笑んでいる清花姉にそう尋ねてみる。
「んー。二十分くらい」
「顔の形変わるわ!」
俺は手で清水の足をどけて、起き上がった。
「嘘に決まってるじゃない。冗談の通じない弟に育っちゃったなぁ」
「あんだけ蹴っといてよく言えるな。で、どれぐらいだ?」
「十八分強」
「ほぼ変わんねぇよ!」
踏む相手を失って寂しそうな清水の手を勝手に借りて立ち上がる。とりあえず、ピンクのフリフリから早く遠ざかりたかった。
「はぁ……。下着は盗むわ、踏まれて喜ぶわ、まさに変態になっちゃった弟に、私はこれからどう接したら良いんだろ……。第一話完っ!」
「勝手にまとめんな! 大体、どうしてあんな所に下着がつってあるんだよ」
「んー。武司用の罠?」
それは酷い。だがもう、この程度の不条理を気にする俺ではない。
「で、清水は俺を踏みながら着替えたのか?」
「違います」
「その間は、私が代わりに踏んでいたから安心してね」
清花姉がそうウィンクをした。
「俺を踏む仕事はそんなにも大事だったのか」
「そこそこ。さ、私は夕飯作ってくるから。それまで清水ちゃんよろしくね」
そう言い、清花姉はピンクのフリフリを拾い上げて元の場所へと戻した。
「おう。カニ玉だったな。待ってるよ」
その背中に俺はそう声を掛けて、清水の手を引いて階段を上った。
二階はほとんどが物置なのだが、空き部屋が二つあって、その内の狭い方、六畳の部屋が清水の寝室兼個室に充てられていた。
「よろしくお願いします」
二階の廊下で、隣を歩く清水が俺にそう言った。
「あんだけ踏んどいてよく言えるな」
「気持ち良さそうでした」
確かに。あの時は気持ち良くて、恍惚の表情を浮かべていた気がする。
「俺変態じゃないか……」
被虐嗜好にも程がある。清水の部屋のドアを押し開けつつ、俺は深くその事を後悔した。
「当然です」
「当然なのか……」
ちょっと暮らし方を改めた方が良いかも知れない。そう思いつつ一歩を踏み出した俺はすぐに、足下を何かに取られて転んだ。盛大に尻餅をつく俺に、清水は真っ直ぐな笑顔で、
「武司用の罠です」
と言った。俺の目の前には、今俺が踏ん付けたと思われる子供用のミニカー。
「……ぐは」
よくよく教育していかないといけない。俺はそう溜め息を吐き、もう一発デコピンをお見舞いしてやった。