28.
漂い、ただ虚ろに流れていく。そんな俺を、今日も俺は見下ろしていた。
ただ、これまでとは違うのは、見守る俺が本質的に漂う俺と変わらないのを、俺がどこかで理解している点である。眺める俺は、誰とも話さない。見ているのは、ただ自分自身だけだ。漂う俺も、見守る俺も、孤独で他から隔絶された存在だった。
<あなたが孤独から逃れるのに……>
空間に、誰かの声が広がった。それが、俺達以外に存在する唯一のものだった。
<どうして、今の平穏を捨てないでいられるでしょう。孤独な平穏を、どうして持ったままでいられるでしょう>
聞きたくなかった。それはどうも、俺を、俺達を責め苛むもののようだったから。
<代償を……。相応の代償を。そうすれば人が成し遂げられない事なんて、手に入れられないものなんて、きっと……>
声は、そう俺が思う事で、遠ざかって聞こえなくなった。俺達は、また一人きりになって、ただ虚黒のまどろみへと埋もれていった。
■ ■
久々に、あの寝苦しい、鬱屈とした夢を見た。かすかな記憶しか残ってはいないのだが、それが息苦しく、暗い夢だった事は、何故か意識に強く刻まれていた。
夢花ちゃんは、今日も来るだろうか。俺は朝の少しの余裕に、久々の紅茶を楽しみながらそう考えた。周りの協力があるとは言え、あのか弱く、幼い少女の体には、道路工事の作業は過ぎた重労働だろう。あるいは、昨日受けた大人しい印象のままに、俺達の協力に逆に負い目を感じて来にくくなるかも知れない。自分の姉が残した一つの居場所を、夢花ちゃんは大切にしてくれるだろうか。
もちろん、そんな思索にそれ単独で答えを捕まえる力があろう筈もなく、答えの出ないまま、俺は家を出た。
いつもより足早に歩いて辿り着いた飛鳥橋高架下の工事現場は、これまでにないほどに和気あいあいとして、工員達の笑顔に溢れていた。夢花ちゃんも、多田野と共に現場長の前に居て、現場長と共に談笑しているようだった。
「お、武司。おはよう」
「ああ。おはよう」
遠巻きに眺めていた俺を目ざとく多田野が見つけて、声をかける。俺は挨拶を返しながら、三人の輪の中へと入った。
「ううと、おはようございます。武司さん」
「今日から、お前と多田野で夢花嬢のサポートに当たって貰う。ま、ちとばかし作業は増えるかも知れねぇが、良いだろう?」
現場長の問い掛けに、はい、と頷く。現場長は前の時と違って、夢花ちゃんへの配慮を強く持っているようだった。
すぐに誰かに呼ばれて現場長は去っていき、俺達もそれぞれの作業へと取り掛かる事にした。重たい二輪車にも、軽く押す為のコツがある。そんな、作業を少しでも楽にするやり方を多田野と共に夢花ちゃんに教えながら、土っぽく空気の悪い道路工事の現場とは思えないほどの爽やかな気持ちで仕事を進めると、不思議と体が軽くなって、作業にも細やかな気遣いをできるようになった。
二人から一時離れて、俺が一人で土を運んでいる時、記憶に新しい落ち着いた女の子の声が、こんにちは、と、俺を呼んだ。
「ああ、今日も来てくれたのか」
「はい。ここはとても、落ち着きます」
桜川だった。桜川は、右手に例の弁当屋の袋を提げて、工員の邪魔にならない場所から俺に左手を振っていた。少しの休憩なら許して貰えるだろうと足を止め、二分弱ほど言葉を交わし合うと、ある時桜川は急に声色を変えて、
「……とても、驚いています。私が最初にここに来た時よりも、今の武司さんのお顔は……とても素敵です。凛々しくて、格好良いと思います」
と俺を見つめた。ありがとう、と答えたものの、あまりに真っ直ぐ見つめて来るので恥ずかしくなってきた俺は、
「そう言えば、毎日こんな時間から、学校とか大丈夫なのか?」
と、話題を変えてしまった。
「はい。本当は行った方が良いのでしょうけど……来なくても良い、と言われておりますので」
「ふぅん……」
桜川が稀に見る天才だというのは聞いていたが、そこまでとは思っていなかった。学校に行かなくても良い程の天才とは、どんなものなのだろう。
「それに、皆さんと居るのは、楽しいです」
桜川はそう、笑った。それはまさに、俺が手に入れようとすらできなかった何かを、確かに手に掴んでいる顔だった。
「さすが、しっかりしてるな。……と、そろそろ作業に戻るな。もうすぐ昼休憩だし、悪いけどそれまで待っててくれ」
「はい。お待ちしています」
桜川の返事は落ち着きを持ちながらも、朗々としていた。明るさ。それは、これまでの飛鳥橋高架下工事には、持ち合わされていないものだった。
桜川を置いて土を運び終え、夢花ちゃんや多田野としばらく単純な埋め立て作業をこなすと、じきに昼休憩の合図が、現場長から出された。
夢花ちゃんは、可愛らしい。以前には見せなかった、しっかりと根の張った笑顔も時々現れるようになったし、口数も増えた。それは恐らく、夢花ちゃんの真の姿の発露なのだろうと思う。だからかも知れないが、夢花ちゃんとはどこも似通っていないように思えるのに、夢花ちゃんにしばしば井上の面影を見るようになった。
「え、えと、この天ぷら、とっても美味しいです!」
「そうでしたか、それは何よりです」
桜川に餌付けられて、いそいそと箸を動かす夢花ちゃんを眺めていると、隣から多田野がパンに噛みつきながら、ぽんぽん、と肩を叩いてきた。
「どうした? 針でも入ってたのか?」
「ひがふよっ! ほは、ふへははん、ふっはりはひんだはあっへは」
「悲しいかな、俺には多田野語は分からないからな。パン外して言えって」
多田野は、いくらかの怨嗟の目線を俺に送ってから、しぶしぶパンを手に取った。
「夢花ちゃん、すっかり馴染んだなあ、ってさ。なんか、まだ二日目だとは思えないよね」
多田野も、どうやら俺と同じものを感じているようだった。俺は、黙って頷いた。
「ま、職場が明るくなるってのは、良いけどさ。僕があげたパンも、無駄じゃなかったって思うよ」
「ああ、クリームパンとか美味かったな」
「あれだけは完全に無駄だったけどねっ!」
多田野がそう言って笑ったので、俺もつられて笑った。穏やかな日常が、ここにはあるようだった。
「幸せだよな、なんか」
だが、俺は次の多田野の問い掛けに、頷く事はできなかった。
昼休憩を終えて、わずかの時間を飛鳥橋高架下で過ごすと、俺は弥生道工事現場へと移った。
弥生道工事は、やはりいつもと同じように、寡黙に行われた。詰まらない、と思う。少なくとも誰も、この仕事を楽しんではいないようだった。どうしてだろうか、俺はそんな彼らの周りに、安息の地を求められなくなっていた。
とてつもなく長く感じられる時間を孤独に過ごして、俺は弥生道での作業を終えた。
■ ■
家に帰り着いた俺は、心身共に疲れていた。弥生道の工事が、これほどまでに辛いとは思ってもみなかった。よくも、これまで楽だなどと感じていたものだ。
いつものように扉を開けると、中からは香りの良いホワイトシチューの香りが漂ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい、武司」
一番に俺を出迎えたのは、珍しい事に清水の姿だった。その手にはコップが握られている、という訳でもない。
「あきゅー。今日は何となく、元気良く出迎えた方が良いように思いました」
訝しく思う顔を見てか、俺が尋ねるより先に清水からそう言った。
「良い心がけだが、どうせなら毎日そうしろよ」
「もちろんです」
聞き覚えのある流れだった。
「もちろん嫌だ、だろ?」
「はい。もちろんです。……どうして分かったんですか?」
「お前はパターンが単調なんだよ」
ぶぅ、と頬を膨らます清水をよそにして、俺は靴を脱いで玄関に上がって、自分の部屋へと向かった。
「……って、何やってるんだよっ!」
部屋に入って電気をつけると、そこには、ごそごそと俺のベッドの下をまさぐる、清花姉の姿があった。
「んー? コショウ探してるんだけど、見つからないんだよねぇ」
「んなとこにあるかっ!」
「やっぱりそうかな?」
清花姉はそう言って立ち上がると、全く落ち着いた様子で俺に歩み寄ってきて、
「ベッドの下から出てきた色んな雑誌については、忘れてあげるからね」
と、肩を叩いて、俺の傍を抜けて部屋を出て行った。
「…………」
数秒固まってから、俺は大変な事実に気付いた。
「そんな雑誌存在しねぇよ!」
俺は部屋の電気を消してから、清花姉を追い掛けて走り始めた。




