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犬猿の騒乱  作者: K_yamada
一.夢
26/59

26.

 午後になって、夢花ちゃんだけでなく、他の工員とも支えあいながら仕事をすると、これまで感じた事のないほどの速さで時間は進んで、弥生道工事に向かう時間となった。

 一転して、弥生道での工事には、これまでにない苦痛を感じた。ただ、黙々と、他の事には目もくれず、作業にすら心を寄せず、心を殺し、体のみを動かす時間が、とてつもなく残酷な拷問のようにすら思えた。周りを見回しても、皆俺と同じ風に、意識を捨てて無意識の中で仕事をしている。

 俺のこの変化が、仕事観に関するものでない事は確かだった。だが、現場長や多田野が言うように、今のこちらの職場は、今の飛鳥橋工事に比べて、辛いものである事は確かだった。俺は長い仕事の時間を、歯を食い縛って耐え、ようやく終了時間に辿りついた。




■ ■


 井上の影響によってああ感じるようになったのなら、たった一週間で全てを成し遂げた井上には、また新たな功績が認められる事になる。人の力とは、かくも大きいものだったのか。俺は、一人帰り道を歩きながら、ちょうど七日前に出会ったばかりの弁当魔について、思いを巡らしていた。

 夜道も、少しは暖かい。もう三月になろうとしている街は、確かに少し色付いているようだった。多分、一昨日も同じ景色を見たのだろう。だが、俺の感受は、大きく変わっていた。

 どこか夢見心地のまま、家へと着く。落ち着かなければならない。井上の事を頭から追い払って、俺は扉を開けた。

「ん。武司、おかえり」

 玄関から中へただいま、と声を掛けると、今日は一番に清花姉が台所から出てきて、言った。

「今日は、良い鮭があったんだよねぇ。他にもおかずはあるけど、まずはそこがおすすめかな」

「いや、まだ訊いてないんだけど」

「そう? どことなく、空腹そうな顔してるよ」

 長く清花姉と近くで暮らしているが、そんな事を言われたのは初めてである。空腹そうな顔、というのがどんなものかは分からないが、相当情けない、不安げ苦しげな顔に違いない。

「ちょっと今日は、疲れたからな。月曜日だし」

 あえて井上の事を話す気にもなれなくて、俺はそれだけ言い訳すると、かばんを自分の部屋へ運ぶより先に、洗面所で顔を洗った。

 部屋へかばんを置いて、再び台所へと戻る。清花姉は一人でまな板の前に立って、そう高くない豚の生肉を、熱心に揉んでいた。

「紗季ちゃんはどうしたんだ?」

「多分、清水ちゃんの部屋で一緒に眠ってるんじゃないかなぁ。お昼、『転落人生ゲーム』をやってみたんだけど、これがまた長くて長くて……」

 よくも、土曜日の経験を踏まえずまたあのゲームを開いたものだ。清水と紗季ちゃんが二人してダウンしているところを見ると、もしかすると土曜日よりも酷い内容だったのかも知れない。

「てか、清水に貸してる部屋、だからな」

「はいはい。今日は紗季ちゃんが優勝だったよ。私は二位かな」

 となると、清水は最下位だ。これで当分、ゲームをしたがる事はないだろう。

「あのゲームは、封印だな。できれば永遠に」

「そうだねぇ。……あ、そうそう。お母さんから、武司宛に手紙が来てたよ。テーブルの上に置いてあるから」

 見ると、確かにそこには、母が手紙を送るのにいつも使う水色の封筒が一通置かれていた。

「またかよ……」

 最近は、手紙の送られてくる間隔がやけに狭い気がする。俺は封筒を手に取ると、またさっき出てきたばかりの自分の部屋へと戻って、封筒を裂いて中の白い便箋を取り出した。




『武司へ。』

 どことなく温かい、母の癖のある字が目に入ってくると、俺の目は否が応にも手紙の方へと向いた。

『元気でいますか。私達は、相変わらず、そちらから連絡を寄越す事もないので、大変寂しく思っています。もう冬も去るでしょう。あなたは、インフルエンザにかかった事がありませんでしたから、免疫もなく、病床に倒れては辛いでしょう。あなたは昔から手の掛かる子でしたから、清花に迷惑を掛けてはいないかと、父共々心配しております。』

 彼女の口調と全く同じように書かれた母の手紙は、読んでいるだけで母の声が聞こえてくるようだ。

『まだ、余裕もないのでしょう。仕送りもできない私達です。しかし、もし時間があって余裕が出来たなら、帰ってきて、私達に顔を見せてください。あなたの声を聞く日が、楽しみでなりません。では。先にも書いた通り、悪風邪など罹らないよう。また、手紙します。岡村慶子より。』

 はぁ、と一つ溜め息をついて、俺はその手紙をベッドへと乱雑に投げやった。何とも、姉への執着が見て取れる手紙である。要領の悪い俺を過度に心配する母の手紙は、今使っている手紙ファイルや金曜日に掘り出したファイルに、無数に存在していた。

 腹が立つとか、そういう感情ではない。ただ、悔しいだけだった。いつになったら清花姉に追い付けるのだろう。どうしたら、清花姉を追い越したと称賛されるのだろう。俺は、俺に投げられて枕元に着地した手紙の横へ頭を埋めて、ベッドへ倒れ込んだ。

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