25.夢の弁当魔
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目を覚まし、顔を洗って朝食を摂る。特に代わり映えのしない朝を変化もなく受け止め、時間を待ってベッドの上で何かする訳でもなく過ごすと、数分してから思いの外早く進んだ時間に少し慌てて家を飛び出した。
仕事に入ると、いつか見た記憶のある女の子が、ぱたぱたと覚束ない歩みを見せていた。ただ、その記憶に比べて表情は全く優れず、とても辛そうだった。そうか、彼女が井上の妹だったのか。俺は、その暗鬱とした表情と井上の言葉もあって、自分の作業を一時置いて彼女の一輪車を押す手を支えてやった。
「え、あ、ええと……。ありがとうございます」
井上の妹は、俺への警戒を解かないままに、そう言った。何となくそれが、捨てられた猫のように見えて、俺は彼女に対する庇護欲を掻き立てられた。
俺が自分の作業に戻ってからも、彼女はかなり辛そうに仕事をしていたが、前に彼女を見かけた時とは違って、皆が彼女をサポートしていた。彼女も昔と今との風当たりの違いに気付いたらしく、段々と憂いの表情の中にも笑顔を浮かべるようになった。俺の職場はいつの間にか、優しくなっていた。
朝はまだ少し残っていた雲が晴れ、青が空一面を覆うようになると、桜川がやってきて現場長やその他の工員達に挨拶をして回った。それは昼を告げる鐘のような役割を果たし、それから間もなくして、現場長は昼休憩の開始を告げた。
「ふーっ! 連休明けな分、余計に疲れちゃったよ。ま、今日はパンも取られないんだし、平和で良いけどね」
作業を止めて、いつもの岩場へ向かうと、先に多田野が座って待っていた。
「まあ、そうだな。……そう言えば、現場長の娘さんとはどうなったんだ?」
「それは聞くな……悲しくなるだろっ。……僕も、親睦を深めようと思ってさ、土曜日が休みになったのを利用して遊園地に連れていったんだよ。そしたら、あいにくの雨でさぁ……」
聞くな、と言いながらも、多田野は自らのボケ話をつらつらと語り始めた。もちろん、土曜日は雨だから休みになったのである。
「こんにちは。今日も、座っていいですか?」
「ああ、どうぞ」
「今日は、井上さんの妹さんも一緒です」
いくらか多田野と話していると、井上の妹を伴った桜川が、俺達の前へとやってきた。井上の妹は、その警戒心を慇懃な優しい桜川に全て抜き取られたようで、桜川より一回り幼い女の子らしい微笑みを浮かべていた。
「……その、えと。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
「うわっ。……どうしよう武司、この子、僕の好みど真ん中だよ……」
お前は幼女趣味者か。心の中ではそう思いながらも、俺は無視して井上の妹を、多田野と隣接しない俺の隣へと誘導した。
「え、と、あ、ありがとうございます。何だか、皆さんがお優しくて、びっくりしています」
そう言いながら、井上の妹は俺の示した場所へと座った。桜川も、その更に隣へと座る。
「な、名前っ。君、名前、なんていうの?」
「え、ううと、その、夢花です」
「夢花ちゃんかぁ……ぼ、僕、多田野ね!」
挙動不審な多田野に端を発した簡単な自己紹介の流れに乗って、俺と桜川も井上の妹……夢花ちゃんに自分の名前を伝える。夢花ちゃんは一つ一つ、当てる漢字まで尋ねながら、それを聞いた。
「……ううと、その。ありがとうございます。これからもお世話になりますが、よろしくお願いします」
夢花ちゃんはそう座ったまま軽く頭を下げて、それから、
「その、それで、聞きたい事があるんです。良いですか?」
と、控えめな声で言った。俺達は、どうぞ、と応える。
「ありがとうございます。皆さんは、お姉ちゃんと知り合いなんですか? その、さっき、詩帆さんが私の事を、井上さんの妹さん、って紹介していたので……」
詩帆さんとは、桜川の事である。
「はい。とてもよく知っています。先週の金曜日には、夢花さんの事をよろしく、と頼まれました」
「先週の金曜日……?」
夢花ちゃんは、首を傾げた。
「はい。ここにいらっしゃるようになったのは、いつからでしたっけ?」
「先週の月曜からだな。弁当を食べにここへきたんだ」
「…………」
俺達の言葉に、夢花ちゃんは大いに困惑しているようだった。少し考えた後、夢花ちゃんは言った。
「お姉ちゃんは……二週間ほど前からずっと家で寝たきりだったんです。だから、その、えと……ここにはきっと、来ていないはずです」
今度は、俺達が困惑する番だった。井上が、ずっと寝たきりだったとは、どういう事だろうか。俺達は確かに井上と話したのに。
「井上は……今はどうなったんだ?」
「一昨々日の夕方に……死にました」
思わず、唾を呑んだ。訊いてはいけない事を訊いてしまったのに、それに対する謝罪の言葉すら、口を突いては来なかった。俺はただ、言葉を失った。
今にもこぼれそうになってしまった夢花ちゃんの涙を、桜川がハンカチで拭う。それから夢花ちゃんが俺達に伝えた井上の容姿は、全て俺達と居た井上と一致していた。そしてその井上は、ずっと家で昏睡状態にあり、夢花ちゃんはそれをずっと看病していた。なのに、俺達もその井上と出会い、話し、別れもした。いや、俺達だけではない。それは、工員達全員が、体験した事のはずだった。
「半年ほど前の事です」
やっと溢れくる涙を堰き止め得た夢花ちゃんは、誰に尋ねられるでもなく、だが、俺達の最も期待している話をし始めた。
「私は、交通事故に遭って生死の境を彷徨いました。たまたま寝坊した私は、走ってくる黒い、大きな車にぶつかったんです。いつ起きるとも、死ぬとも分からない私を、お姉ちゃんは熱心に看病してくれました。両親は、早くに亡くしてしまったので、二人で暮らしていたんです」
涙をこらえようとしているのか、あるいは遠い日の思い出に心を奪われているのか、夢花ちゃんは一言一言を、噛みしめるようにして言った。
「私は、お姉ちゃんの懸命の看病のお陰で、目を覚まし怪我も完治させる事ができました。生計を立てる為に、完治してすぐ、私はここで働き始めました。両親の残したお金は、私の治療費でほとんどがなくなってしまったんです。武司さんと多田野さんは、その時にもお見かけしました」
不憫な少女が、非力を駆って仕事をしている。あの時の俺や多田野は、多分その程度の事しか考えていなかっただろうと思う。もちろん、手を貸す事もせずに。
「そして……お姉ちゃんは、交通事故に遭いました。赤い、赤い車。私の目の前で、お姉ちゃんは何メートルも先へと、その車に蹴り飛ばされたんです。お姉ちゃんはそして、昏睡状態に至りました」
夢花ちゃんの声が、震えた。
「私は、お仕事を休んで、お姉ちゃんに付き添いました。だけど、お姉ちゃんは、私の時のように目を覚ます事なく……そのまま、金曜日に、息を引き取りました。……そう言えば、お姉ちゃんの一番のお気に入りだったズボンのポケットから、こんな袋が出てきたんです」
零れ、流れ落ちてしまいそうな涙をぐっと堪えて、夢花ちゃんはそっと、丁寧に畳まれた弁当屋の袋を俺達に見せた。ああ。俺達はその瞬間、夢花ちゃんの姉である井上が間違いなくここに居たという事を、心から確信した。
「……凄いです」
桜川がふと、そう漏らす。俺達も同じだった。その、綺麗に折られた袋は、井上が桜川から受け取って、俺達の目の前でポケットへしまったそれだった。
「井上さんは……どうやってかは分かりませんが、確かにここに居たんです。ここに居て、私達に夢花さんを託して……居場所を作ったんです。私がここに来たのも、井上さんの噂を聞いたからでした。……とても、とても凄いです」
桜川はそう言うと、つつ、と右頬に一本の筋を伝わせた。井上は、言ってみれば妹を心配する精神のみによって、ここまでやってきてその居場所を確保したのである。それは、あまりにも神秘に満ちていて、にわかに信じる事はできない。だが、それは、真実のようだった。
改めて、俺は今の自分の周りを見回してみた。多田野はともかく、今日も桜川と話しにくるのだろう工員も、桜川も、あるいはそんな温かい昼休憩の環境も、全て井上がもたらしたものだ。ただの一週間。彼女が絶命するまでのその一週間で、彼女はそれを成し遂げたのである。
ふと、俺の目にも温かいものが上がってくる。少し体を揺らしただけで、それは頬から首へ伝って、作業服の襟に吸い取られた。だが、俺の涙は、止め処なかった。多田野もそれに加わって、夢花ちゃんを困らせると分かっていながら、俺達は昼休憩の半分以上を費やして、泣いた。
やっとの事で落ち着いた俺達は、事情をよくよく説明し、それから井上の人となりについて話を聞いた。それは、先週俺達が出会った弁当魔井上のイメージそのままだった。
そうして、井上の死という事実が、俺の心には大きくのしかかってきた。もう会えないのだ、という疑いようのない確信が、こんなにも自分は人恋しく思えるものなのかと驚くほどに、俺の胸を突き刺した。
だが。あるいはそれも、井上の計算の中だったのかも知れないが、そんな俺の寂寞の心を埋めたのは、夢花ちゃんを、この工事現場で守ってやらねばやらないという思いだった。
井上のような人物を、強い人と心の呼ぶのだろうか。俺には、到底なれそうもない。俺はそう、強く、思った。




