22.
美味しい、美味しいと口々に感想を述べ合っている内に、たった一つずつしかないおにぎりはたちまち無くなって、また、俺達の仕事に戻る時間も迫ってきた。
「じゃあな、井上」
おにぎりのゴミを、さっきどこやらか飛んできた袋に詰め込みながら、俺はそう言った。惜しむほどの別れではないという心の裏に、ちょっとした寂しさを俺は覚えていた。
「達者でやれよな。俺達の弁当の分」
だから、むしろドライに見せようとして。俺は淡白にそう言って立ち上がった。
「ああ。……ありがとう、楽しかった」
そんな俺の服の裾を引くでもなく、井上は言った。
「本当に、楽しかった。ありがとう」
「また会えると良いよね。その時は、僕もパンをむざむざ譲ったりはしない男になってるけどさっ」
「そうだな。また、会えると良い……」
井上の声も、別段震えているわけではなく、ただただ普段のような力がないだけである。やがて、井上は立ち上がって、
「ではな。妹をよろしく頼む。……ではな」
と、二回別れを告げて、どこか物悲しい、今にも崩れてなくなってしまいそうな笑みを一つ浮かべて、そのまま向こうへ振り返ると、まっすぐ歩き出して去っていった。
「新入りの、外野の私が言うのもおかしいかも知れませんが……。井上さんの妹さん、大切にしましょう」
「そうだな。って、弁当は譲る気ないけどな」
俺はゴミの袋を持ったままで、そう笑った。そして仕事に戻る為に、立ち上がり、桜川にまた明日な、と言ってから、歩き出した。
■ ■
仕事は、どうやっても脳から追い払えなかった井上の事を考えている内に、矢のように時間が過ぎ、気が付けば弥生道でのそれさえも終わってしまった。俺は帰路にあって、まだ井上の事を考え続けていた。
井上がもたらしたものは、考えてみればかなり大きいものだった。元々、あの場所は長らく俺と多田野が使っているのみで、他の誰かがあんなにも長い間留まるような場所ではなかった。それが、井上が来て、昼ごはんが少し騒がしくなり、桜川が参加して、作業員が集まったのだ。俺や多田野が、そうしようとしていなかったとは言え、これまでやれなかった事。それを、井上はたった一週間足らずの内に成し遂げてしまったのである。
「人の力は怖い、か」
しみじみとそう思いながら、俺は到着した家の扉を開いた。
ただいま、と声を掛けると、どたどたどた、とどこかはしたない足音を立てて、清水が一番に玄関へとやってきた。
「お帰りなさい、武司。見て下さい」
自慢げな声と表情の清水の手には、八割五分ぐらいの水が注がれたコップがあった。
「自分で注いだのか?」
「はい! これは、レオナルドダヴィンチも驚きの進化です」
進化説を唱えたのはダーウィンである。
「そうか。それは、偉いな。長い道のりだったけど」
だが俺は、進化説云々は関係なく、清水の柔らかい髪を、なぞるようにして撫でてやった。
「はい!」
清水の方は清水の方で、まるで世界記録を出したスプリンターのように、感激と興奮の目でガッツポーズをして、その喜びを伝えてくる。俺はいっそう微笑ましくなって、髪を撫でる手をいっそう優しくした。
「お帰りーって……えっと、お楽しみ中? 修羅場?」
「どこかどう修羅場なんだよっ」
続いて清花姉が現れると、俺はその手を離して、靴を脱いで中へと上がった。と同時に、こみ上げてくる疲れにめまいを感じて、一,二歩ふらつく。
「大丈夫? ……そんな武司に朗報なんだけど、明日から雨らしいよ。もしかしたら、工事お休みになるかもね」
「良くねぇよ、給料が減るだろ?」
「安心して、私達の取り分は変わらないから」
「俺から引く気かよっ!」
清花姉がそっと差し出してくれた手を取って、俺は真っ直ぐ立った。やはり何と言っても、どこより落ち着くのは家である。俺はまたそう実感させられながら、かばんを置きに自分の部屋へと戻った。
ご飯を食べながら、明日の天気についての詳細を聞く。今日は季節外れの焼きなすで、旬ではないと言えどもその醤油とのコンビネーションは、俺のご飯を容易く進ませた。
「低気圧がこう、北上してくるので、この辺りは明日から雨だそうです~」
「へぇ……。明日の何時くらいから?」
「朝の三時くらいと聞いています」
それは、かなりまずい。我が工事現場にももちろん防水設備はあるが、それでも完全に雨を防ぐ事はできず、機材が壊れると赤字が確定するという事で、会社の方から工事の断行はしないように言われているらしいのだ。休みになれば、一日分の給料が飛ぶ事になる。
「……ま、いつかは雨も降るよなぁ」
「そうそう。気に病んでも仕方ないよ」
どうせ考えても雨を止められる訳ではないので、諦めてご飯に集中する事にしよう。俺はそう決めて、俺は半分ぐらいがなくなったなすへと箸を伸ばした。
しばらくして、食べ終える。ごちそうさまでした、と声を合わせて、俺達は箸を置いた。
「じゃあ、私はお皿洗うから、武司はお風呂の準備して、アレだしといてよ」
「アレ?」
「『転落人生ゲーム』よ。明日雨で休みになったら、明日にもできるでしょう?」
そんな名前のゲームを、雨降る土曜日にやったら心が荒む気がする。
「どうせ明後日もあるんだし、そっちは日曜にして、明日は『激甘! 薔薇色人生ゲーム』の方にしないか?」
「あ、それ名案。じゃ、二つとも出しといてね」
「私は、清花さんのお手伝いをします!」
紗季ちゃんがぴょん、と椅子を飛び降りてそう手を上げる。俺はじっ、と、清水を見つめた。
「では私は、部屋でお休みしています」
期待した俺が馬鹿だったらしい。一つ小さな溜め息をついてから、俺は立ち上がった。




