21.
この場所は、俺達を決して逃すまいとの意識を持っているようだ。元々漂う俺にも、それを見守るだけの俺にも、ここから出ていこうなんて考えは全くないのに。
<人は、どんな物でさえ手に入れる事ができます。ただ少しの、代償を支払えば……>
昨日から続くそんな声を、見守る俺は両耳に手を当てて聞こえなくした。しばらくすると声は止んだようで、俺はまた今日も、漂うだけの俺に話しかけた。
「今日の昼ごはんは、賑やかだったんだ」
もちろん、聞いているのかなど今日も分かってはいない。ただ、それが使命だと思うから、俺は漂い眠る俺に声を掛け続けた。
その内、見守っている俺も、無意識の方へと引きずられて意識を失った。
■ ■
目覚める。連日、目覚めはさほど良くもないが悪くもないというような様子で、夢の内容も覚えていないのだが、全く快眠している、という訳ではないようだった。睡眠の良し悪しばかりは、もはや俺の頑張りではどうにもならない。何とか良い眠りにつかせてくれと、神様に祈るばかりである。
寝ぼけた頭で顔を洗い、ご飯を食べると、少しの余暇を部屋で過ごして、俺はかばんを持って玄関へと出た。そして、目立つ紗季ちゃんの可愛い靴を避けて自分の靴を履くと、いまいち乗り切らない気分のまま家を出た。
何事もなく飛鳥橋へと到着し、仕事に取り掛かる。何となく昨日より居心地が良いような気がして、俺は不思議に思いながらも仕事に心を寄せた。
まさに怒涛のように時間が過ぎて、昼ご飯の時間となった。いつものように例の岩場へと向かうと、一足先にやってきていたらしい桜川を囲んで、工事現場のゴツい男達がわいわいと話していた。
「なんか、賢い子らしいよ、彼女。僕の惚れちゃうようなタイプじゃないけどさ」
こちらも一足先に岩の上の席を確保しにきていたらしい多田野が、そう言って座るよう自分の隣をあごでしゃくって示した。
「まあ、確かに理知的だな」
「そんなレベルじゃないんだよ。彼女、高校三年生らしいんだけどさ、ほら、弥生道を上った所に大学があるよね。あそこにトップ成績で入学が決まってるんだってさ」
「へぇ……」
弥生道を上った先の大学と言えば、歴史のある名門の大学である。日本全国でも、高レベルな順に指を折って数えても片手で足りるぐらいだったと思う。
「現場長の奥さんが、たまたま彼女の名前知っててさ……。それでこの騒ぎって訳さ」
「おい。何だこの騒ぎは」
多田野が、僕のばっちりな説明で分かったよね、みたいな顔で俺を見た同時に、またやってきた井上がそう多田野に声を掛けた。
「また説明するの……?」
「ほら、ちゃんと説明してやれよ」
毎日思うが、多田野は不憫な奴である。
多田野がかくかくしかじかと説明をすると、井上は大いに頷いて、
「それはすごいな」
と、言った。
「おっ、井上ちゃんじゃないか。こんにちは。今日も弁当貰いかい?」
俺がそうだな、と言葉を返すより先に、桜川を囲っていた男の内一人が、井上の登場に気付いてそう話しかけた。
「ああ、そんな所だ」
「そりゃあ良かった。井上ちゃんの為に、今日は余分におにぎり買ってきたんだよ。全部で八つあるからな。いくつでも、好きな奴持ってって良いぞ」
「おお、ありがとう。では、四つ……おかかとしゃけと、それから明太子に梅干しを貰おう」
桜川に負けず劣らず井上も人気のようで、俺達の隣に座る暇もなく、井上は新たな男達の群れを作ってその真ん中へと埋もれていった。
近くに少女に集る男達が居るとは言え、久しぶりの多田野と二人で岩場に座っている。ずっとこうだったからこれまでは感じた事もなかったが、こうしてみるとやけにそれが懐かしく感じられた。
「ま、今日は平和って事で、僕達は僕達で食べようよ」
「そうだな」
多田野の提案に従って、二つの男の群れから少し離れた所で弁当を出す。今日はシュウマイを主役とした中華風弁当のようで、よくよく炒められた炒飯が特に味も良く、白米よりも豪華な感じがして美味しかった。
「いつ見ても美味しそうだよね。ま、今日の僕の焼きそばサンドイッチには敵わないだろうけどさ」
多田野は、耳を取った食パンに溢れんばかりの焼きそばが挟まっている、珍妙な食べ物を手にしていた。
「もぐもぐ……ぶぐ……む……」
一口食べて、案の定むせる。俺は、足下にあった多田野のお茶のペットボトルを投げ渡してやった。
「何だこれ……」
「こっちの弁当の方が美味そうだよな、うん」
「な、何をぅ! もぐもぐ……むぐ……ぐ、ぐげほっ!」
一体何をどうしたら、あんなにも喉を通過しない超常物質が誕生するのだろう、などと思いながらも、昼休みの時間を惜しく思って俺は弁当を食べ進めた。
五分足らずで食べ終える。普段は俺よりも早く食べ終わる多田野も、焼きそばサンドイッチの破壊力に苦戦して今日は遅く、俺は水筒のお茶を飲んで、それからさっきに比べて少しは落ち着いた様子の人集りを見た。
「ああ、いけねぇな。もうこんな時間だ。飯抜きじゃ、午後は持たねぇ。すまねぇな嬢ちゃんら、俺らは飯食いに戻るわ」
「はい。午後からのお仕事、お怪我のないようお祈りしています」
ちょうど解散するタイミングだったらしく、むさ苦しい作業員達は、小走りで自分のいつもの場所へと戻っていった。
「ここは、とても楽しいです」
やっと解放された桜川は、嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうな顔で多田野の居ない方の俺の隣へと腰掛けた。
「色んな方が、たくさんいらっしゃいます」
「確かに、癖は強いかもな。柄悪いけど」
「皆さん、とてもお優しいですよ」
桜川は人差し指をぴこん、と立てると、そう笑った。俺は釣られて笑いながら、まだ立ったままの井上を見た。腕には、さっき誰やらからか貰ったらしいおにぎりの袋が提げられていたが、井上は一向にそれを食べようとする気配もなく、喜んでいるような悲しんでいるような、寂しいような温かいような、そんな様々な感情を織り交ぜたような表情をして、ただ立ち尽くしていた。
「食べないのか?」
「ん……いや、そうだな」
桜川に席を譲られて、俺の隣に座る。その動作中も、動作が終わってからも、井上はどこか落ち着かなさそうだった。
「……少しだけ、惜しくなったんだ。お前達に取っては、何気ない日常の一瞬だったんだろうが……。……いや、何でもない。それより、私の話を聞いてくれ」
焼きそばサンドイッチを食べ終えた多田野が、井上の発するただならぬ緊張感に気圧されて、何も言わずに会話の輪に加わった。
「私がここに来るのは、多分今日が最後になる。代わりに……私の妹が、明日から来ると思う。私と同じ、井上という苗字だ。私に接したように、優しく温かく妹を迎えてやってくれ」
桜川一人が小さく頷いたが、俺と多田野は突然の話に脳の処理を追い付かせる事ができず、一時硬直した。
「……ふむ。しんみりしてしまったな。よし、最後の昼餉といこう」
「いや、俺達もう、食べ終わってるんだけどな」
「何。せっかちな奴だ」
井上は笑い、右手で袋の口を開いて、左手で中のおにぎりを一つ掴んだ。俺はその動作をじっと見ていたが、ある時ふと気が付いて、
「多田野、時間大丈夫か」
と、訊いた。
「うえ? ……わぉ、いっつあみすてりあすたいむ」
「下手な英会話講座は今度な。今何時だよ」
「休憩終了の十分前だね」
まだ少し、作業に戻るには時間がある。俺は、井上のおにぎりの袋に手を入れると、二つ、おにぎりを取った。
「今日が最後なら、これまでの昼飯分返して貰わねぇとな。ほら、多田野。おかかをやろう」
「おい。私のおにぎりだぞ。……まあ、でも、一人で四つは少し苦しいと思っていた所だ。ほら」
可能不可能で言えば、井上の早食いセンスから考えるに彼女なら四つぐらいは軽く平らげそうだ。だが、井上は、袋に残っている最後のおにぎりをも桜川に渡すと、袋を丁寧に畳んでポケットに入れ、それから自分の分のおにぎりに取りかかった。
「美味しいです、ありがとうございます」
コンビニのおにぎりはちょっとしたIQ測定器でもあるらしく、いち早く開けた桜川が一口上品に小さくかぶりついて、そう感想と感謝を伝えた。井上はうん、と頷いて、やっとフィルムを外しておにぎりを取り出した。俺もそれを見て、自分の分のおにぎりへと取り掛かった。




