2.
「さて。何をしに一階に来たんだ?」
ピョンピョンと跳ねるのはさすがにもう止めて、だがまだ無垢な目線で俺を見つめてくる清水に、俺はそう尋ねた。
「水が飲みたくなりました。喉が渇きすぎて、それでつい階段の存在を……」
「ああ、そこはもう聞いたって。水か。注いでこれるか?」
「無理です」
まるでそれが当然であるかのように、清水は胸を張って言う。どう考えても世間一般ではおかしな事だが、我が家ではこれはよく見る光景になっている。清水は大抵の事について出来ないと言って、やらせてみると確かに出来ない事だらけだった。悪い喩え方をすると、それは知恵遅れ者のそれに酷似している。実際俺も清花姉も、清水については何らかの知的な障害を抱えているのだろうと認識していた。もちろん差別的にではなく、ごく親身に、だ。
「良いか。まず、台所に行く。そしたら机の上に、赤いシールが貼ってあるお前のコップがあるから、それを手に取るんだ。んで、水道の栓をひねって、水を注ぐ。これだけだ。簡単だろ?」
こくこくと頷く。俺はそんな清水の背中を、台所の方へと軽く押してやった。清水は多少よろめきかけながらも、台所へと入っていった。
壁に隠れつつ、その様子を窺ってみる。
(ってか傍からだと、これって兄妹ぐらいにしか見えないよなぁ……)
まだ俺は二十一である。一方清水はまだ十七ぐらいに見えるが、少なくとも親子ほどに年齢は離れていない。なのにやっている事は、幼い娘にする事そのものだ。
「赤い机のコップにあるシールが私の物……」
早くも指令が違う物に入れ替わっている。うんうん、これなら私にも分かると頷いている台所の清水に、俺は後ろから小さい声を流してみた。
「机の上にある赤いシールが貼ってあるコップが私の物」
「机の赤にあるコップの上のシールが私の物……?」
「机の上にある赤いシールが貼ってあるコップが私の物」
「机の上にある赤いシールが私の物……?」
どれだけシールが欲しいんだ。そもそも喉が渇いていたんじゃなかったのか。
だが、中々に順調だ。清水は俺の誘導とも気付かずに、徐々に正しい方へと軌道修正している。もう一押し、頑張ってみる。
「机の上にある赤いシールが貼ってあるコップが私の物」
「机の上にある赤いシールが貼ってある……ええと」
「コップが」
「机の上にある赤いシールが貼ってあるコップが私の物。……よし」
ついにゴールした。俺は、壁の陰でガッツポーズを取る。
清水は赤いシールのコップをきちんと手に取って、今度はきょろきょろし始めた。また俺の出番である。
「水道で水を注ぐ」
「水道……よし」
よっしゃ、一撃。よく分からない達成感に満たされる。だが、清水は水道の前に立った後、またそのまま硬直した。
「栓を捻る」
再び、助け舟を送る。今回も一回で分かってくれたらしく、清水は水道栓をくるくると回した。少々勢いが強すぎるものの、水が出た。とても嬉しい。ブリーダーの気持ちが少し分かったような気がした。
「……入りません」
む、何だろう。これ以上何か起こる余地があるのか。
(お、おおう……)
見ると、清水はコップを逆さ向けに水道水へ突っ込んで、跳ね散る水を何の抵抗もなく浴びていた。ちなみに今は二月である。絶賛インフルエンザ流行中である。
ここまでか。俺は台所に駆け入って、荒れ狂う水道の栓を締めた。
「武司。このコップ、何だか水をはじきます」
「違ぇよ」
真っ直ぐ見上げてくる清水の視線を避けつつ、俺は清水の手元のコップを半ば奪うようにして手に取り、逆さまに、と言うより正位置にひっくり返した。
「穴がねぇと、入らないんだよ」
「あきゅー。……ついうっかり」
「はいはい。じゃ、こぼさず飲めよ」
ちょうど良いぐらいの勢いで水を出し、七分くらいに注ぐ。目を輝かせてそれを見ていた清水は、俺が次にコップを渡すと、こくこくと喉を鳴らしながら四口ほど飲んだ。
「ありがとうごさいます。このご恩はお返ししたいと思いますが、無理です」
「うん。知ってる。それより、びしょびしょだぞ。大丈夫か?」
「はい。少し……くしゅん。寒いですけど」
それは、何よりの駄目な証だ。
「着替えまだあったよな。着替えられるか?」
「当然です」
さすがに失礼な質問だった。心の中で謝っておく。
「当然出来ません」
「……ぐは」
謝罪は撤回した。
「どうして出来ないんだよ!」
「服がありません。洗濯して貰ってますから」
「それでも、一枚ぐらい残ってるだろ?」
清水はぶんぶんと首を振る。これは困った事になった。このまま放っておく訳にはもちろんいかないし、替えの服はと言うと清花姉の部屋にしかないだろうから、取るには俺が清花姉の部屋へ入るしかない。だが、清花姉の部屋は……。
「いやいやいやいや、無理無理!」
清花姉の部屋は、下着類が堂々と干してある恐ろしい空間だった。姉弟で、しかも二十歳過ぎの男が何を言っているんだと自分でも思うが、清花姉の下着は無駄にプリチーだったり意味もなくセクシーだったりするので、何と言うか、戸惑ってしまう。
「当然です」
「だよな。お前取ってこれるか?」
こんな時こそ、女の子の強みが発揮される所だ。心の中で感謝しておく。
「違います。無理でも武司を犠牲にするのが当然です」
「……ぐは」
感謝は撤回した。
「どうして俺を犠牲にするんだよ!」
「これまでもそうでした」
俺はぶんぶんと首を振る。俺は何だ、哀れな仔羊なのか。
「分かった分かった。取ってくるから、二階に戻ってろ」
「はい。ほら」
「ほらって何だよ!」
どうやら覚悟を決めねばならないらしい。俺は、俺を見上げてくる純粋そうな瞳を見ながら、唾を飲み込んだ。