18.
気付けば、これまでになく騒がしくなった俺達の休憩石場を一目見ようとしてやってきた工員達で、石場の周りはかつてない盛況を見せていた。皆、井上の人懐こいというか躊躇いのない性格に驚きつつも好感を抱き、桜川の清楚丁寧でかつ明るい言葉に好意を寄せ、口々に彼女らに質問をぶつけた。質問に応答する井上と桜川はとても楽しそうで、俺と多田野は邪魔しないようにと声を掛けずに見守っていた。
少しして、昼休みの終了が五分前に迫ると、工員達は仕事に迅速に戻れるようにと、昼前にサボりを働いた多田野の後ろ襟を掴んで引きずりながら去っていった。桜川も、そろそろお暇致します、と各種のゴミ類を袋に詰めて帰ると、石場には俺と井上の二人だけが残された。
「そう言えばさ」
俺は、折角の機会だからと、さっきの質問の嵐の中でも出なかった、だが一番気になっていた事を訊こうと心に決めて、言葉を発した。
「うむ。なんだ」
井上も、今日は上機嫌と見えて、いつもより数段高ぶった声でそう応答した。
「いや、答えたくなかったら別に良いんだけどな。どうして毎日、食いにきてるんだろう、って思ったんだ」
「……ああ」
だが、俺の質問はどうも興を削ぐものだったようで、俺がしまったと思うより先に、井上は表情を少し陰らせてうつむいた。
「安心してくれ。私は別に、虐待を受けてこうしているんじゃない」
うつむきをそのままにそう言って、それから井上は顔を上げた。悲壮を溜め込み、それでも尚笑みを浮かべようとした、均整の取れていない、不安定な、いびつで暗い笑顔が、井上の顔には浮かんでいた。
「そうだな……。明日、話そう。明日にはきっと話すから……。だから今日だけは、このままの気持ちで、帰してくれ」
その気持ちの、気分の半分以上は、俺の質問によって害されている。それを分かりながらも、ああ、と応える以外の選択肢は、俺に残されていなかった。
静かに立ち上がって去っていく井上に、俺は後ろから、まず気付かれないような動作で手を振り、それから昼休みの終了まで時間が残されていないのを思い出して、駆け出した。
■ ■
弥生道での作業を終えて、俺はこれまでと変わらない道を、いつもと同じくらいのテンポで家へと歩く。三月も近付いてきた晩冬の夜風は、冷たいなりに暖かさを含んでいて、火照った体を程良く冷ましてくれた。
何事もなく家に着いて、扉を開く。中から、嗅ぎ慣れた清花姉の得意料理の香りがどっと押し寄せてきて、それが俺の安息を誘った。
「武司さん、お帰りなさいです~」
「ああ、ただいま。今日はもしかして、粕汁か?」
まるで半分自信がないかのように言ってみると、今日も一番に迎えに出てきてくれた紗季ちゃんは、大げさに表情を変えると、
「さすが武司さんです、匂いだけで分かっちゃうんですね。はい、今日は粕汁です~」
と言って、笑った。
「そうか。……楽しみだな」
紗季ちゃんに負けないつもりで、俺も笑う。実際、清花姉の粕汁は絶品中の絶品なのである。鮭などの魚を入れずに、大根や人参、コンニャク、しいたけなどをふんだんに含ませた粕汁は、少し濃いめの粕の香りの良さと素材の旨味が十二分に混ざり合って、これ以上ないほどの絶妙なハーモニーを奏で、メインのおかずが何であろうと、その味を引き立てるのだ。
「お帰り、武司。二階で、清水ちゃんが待ってるよ」
「清水が?」
続いて台所から姿を見せた清花姉は、俺のおうむ返しの質問にうんうんと頷いた。
「新型の武司用トラップが完成したって、お昼から上機嫌だったからねぇ。……死なないでね」
「そんなにヤバいのかよ! 止めろよ!」
「私に、可愛い清水ちゃんは止められないもの……」
弟の危険より、居候の機嫌を気にする姉がここに居る。酷い話だ。
「ま、そんな訳だから、ちょっと上がって死にかかってきてね」
にこにこと笑う清花姉は、それだけで悪魔のように見えた。
一応、破けたりしては困るカバンを部屋に置いてから、俺は心も身支度も万端調えて、階段を上り出した。ちょっとした安全そうな物ならば、わざと引っ掛かってやろうという気もあるが、もし大掛かりで悪質かつ危険な物だった場合には、回避なり受け身なりを取る必要がある。清水に限って、悪意の薄い効果のあまりないような物は作らないと思うのだが、まだまだ幼稚という点では目一杯の趣向を凝らしてもさほどの物ではないという気もする。何にせよ、最後にはデコピンをお見舞いするのだが。
清水の部屋の前に立つと、中から薄っすらと柑橘類の良い香りが漂ってきた。香水の匂いである。全くどんなトラップなのか、想像に難い。
一応、ノックしてみる。もちろん大方の俺の予想通り応答はなく、俺はいくらか待った後、扉を開いた。
「……ミニカーはなし、と」
足下確認の結果、床に危険な何かはないと判断して、一歩踏み出す。さっき感じていた柑橘類の香りは、程良く香しい程度にまで強くなった。清水の姿は、見当たらない。だが、奥に進んで扉を閉めると、ちょうど扉が開いている時には死角になる、入ってすぐ右の空間に、清水は横たわっていた。
開いた扉で顔を強打した可能性もないとは言えず、俺は細心の注意を払いつつ横向けになっている清水を、仰向けに転がした。
「……何だこれ」
思わず、感想がそのまま口を突く。清水の平坦な胸の上には、もちろん服を着ているその上には、「毒リンゴを食べました。王子様のキスで目覚めます」と大きく書かれた厚紙が、これでもかという程に派手な装飾をして置いてあった。
「…………」
つい、絶句する。何だこれは。
俺が、目をつむる清水を前に一動すらできなかったからか、清水はある時パッと目を開けると、いつもの幼い表情ではなく、むしろ大人びた真っ直ぐな顔で俺を見つめた。俺を突き刺すその目が、あるいは乱れたその髪が、まるで計算され尽くされていたかのように美しく、俺は一瞬気を取られて、意識を失うような錯覚に囚われさえした。
「……ん」
清水は寝ぼけているのか、あるいは意識してなのか、起き上がって座ってからまた目を閉じた。それは、本当に何かを待っているような、妖艶な色を帯びていた。俺はその色に呑まれて、清水の肩に手を置いた。
ぱさっ、とかがんだ俺の足に厚紙が落ちてきて、俺は一寸前、触れ合う少し前に、やっと理性を取り戻した。
「痛っ。い、痛いです、武司」
とりあえず、デコピンしてやる。何か悪い魔物から解放されたように、清水にはいつもの無邪気な幼さが戻った。
「馬鹿。何だよ、これ。一瞬驚いただろ?」
「ハニートラップです! 武司になら、とても有効なのではないかと……痛っ」
もう一回デコピンを喰らわす。清水は額を両手で押さえて、俺に無言の非難を浴びせた。
「それぐらいは当然の罰だからな。……ってか、そんなのどこから覚えてきたんだよ」
「……あれです」
清水が指差した先の机の上には、この辺りでのニュースを取り扱うドローカル紙、飛鳥新聞が置かれていた。歩み寄って見てみると、発行日は今日のようで、一面には「ハニートラップに要注意!」と、最近流行っているらしい結婚詐欺についての記事があった。
「紗季さんが買ってきたんです」
「紗季ちゃんが? ……ふうん」
確かに、子供にとって新聞ほど絶好の暇つぶしとはないものだ。最新の流行りも掴めるし、親から叱られる事もない。紗季ちゃんにも、きっとそういう事はあるのだろう。
紗季ちゃんを責める訳にもいかず、清水がハニートラップなるよくない術を思い立ってしまった責任は、誰にもないという事で理解せざるを得なかった。その後、清花姉がやってきてご飯の時間である事を告げた時、清水は大きく跳ね上がるようにして喜んだのだが、俺はどうしてもその中に、さっきの艶かしい女の色を、見つける事はできなかった。