17.
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きっかり六時に目が覚めた俺は、今日も紗季ちゃんが起きているかも知れないと思って先に風呂場を覗いてみたが人影はなく、一人朝食をとった後、準備の万端を整えて少しの時間の余裕をモーニングコーヒーを楽しむ事に費やしていた。朝に飲むコーヒーは、含まれるカフェインの効能によって、日中の活動をより楽にしてくれるらしい。それがどのような原理で、どうしてそうなるのかは全く見当がつかないが、専門家が言うのだからそうなのだろう。そんな事までいちいち疑っていたら、心地良い生活など送れるはずもなかった。
紗季ちゃんが起きてくる事もなく、俺はいつものように見慣れた景色として整然と広げられている玄関の靴の一つに足を入れて、家を出た。
疲れ果てた脚の苦悶も、折れそうな腕の悲鳴も、聞こえないフリをして作業を続ける。ただひたすらに、動き続ける事だけが、唯一俺に許された行為だった。
その途中、昨日同じ時間に聞いた記憶のある声が、俺を励ました。見上げると、桜川が例の清楚な笑顔を浮かべながら、少し低い所に居る俺を見下ろしていた。
「今日も、差し入れか?」
「はい。昨日と同じ物ですが、現場長さんにお渡ししました。お昼は、また昨日のようにお邪魔しようと思っているのですが、良いでしょうか?」
気品があるのに、それでいて眩しい笑顔。俺は、額の汗を汚れた袖で拭きながら、
「ああ。どうぞ、来てくれ」
と答えた。そして続けて、
「にしても、どうしてここに差し入れなんてしてくれるんだ?」
と尋ねた。
「皆さんの仕事に打ち込む姿が、とても心地良い物だったからです。一缶三十五円が四十缶で千四百円。それだけで皆さんと知り合えるなんて、とってもお得ですから」
そういう考え方も、できるのかも知れない。だが、普通の発想ではやはりない。
「では、お仕事のお邪魔をしないよう、一度帰りますね。ありがとうございました」
「ああ、こちらこそ」
桜川はまたにこりと笑むと、くるりと半回転、身を翻して歩いていった。俺はその姿をぼうっと見送った後、仕事が途中だったのに気付いて、また作業へと戻った。
昼休み、いつもより数分来るのが遅かった多田野は、昨日と同様にコーヒーを一缶俺に手渡すと、すぐ隣へと腰を下ろした。多田野の顔には、何とも形容し難い悪人っぽい笑顔。
「どうしたんだ。水ヨーヨーでも買って貰ったのか?」
「んな事でこんなには喜ばねぇよっ! ふふん。いやね、ここ最近、ろくに自分のパンを食べられてないと思ったんだ」
得意げな声で言いながら、多田野はコーヒーの缶を開ける。俺も同じように開けて一口飲んでから、ああ、と頷いた。
「だから僕は、仕事中考えに考えた……それはもう、仕事をサボっちゃうほどにね。三十分ぐらい経った頃かな、現場長が僕に言ったんだよ。『休む暇があったら手を動かせ』ってね。それで僕は閃いちゃったって訳さ。つまり、今日の僕は、既にインダスカリーパンを内包しているんだっ!」
今日の弁当は、何とも美しく整えられた海苔弁当だった。見た目は少し安っぽいが、食べやすさは一級品である。
「って、聞いてねぇじゃん……」
「やあ。私の昼ごはんはもちろん用意されているんだろうな」
四日連続で現れた井上は、俺が手を振って挨拶するのに応えて手を振ると、俺を挟んで多田野と反対側へ座った。
「いや、あったんだけどな。お前のカレーパンは、多田野が食っちまったらしい」
「何。多田野、お前は食い意地の張った奴だな、よりにもよって私の昼食を食べてしまうとは……」
「元から僕のだよっ!」
井上は次に、獲物を探す鳥の目で俺の弁当を見つめて、
「海苔弁当は苦手なんだ。不本意だが、お前に譲ろう」
と、溜め息をついた。
「ああ、どうも。……ほら、多田野。現場長の娘さんの弁当、譲ったら良いんじゃねぇか?」
「そんな事したら、僕の命が危ういよ……。それに、今日も『ギロリ』ってされたしね」
まあ、パンを先に食べたからには、そうなのだろうとは思っていたが。
「ちょうど良かったです。お弁当、二つほど余分に持っていますので、ぜひお召し上がり下さい。と言っても、お店で買ったものなんですけどね」
俺達三人の前にそう言いながら現れたのは、桜川だった。その右手には、近くの弁当屋の袋が提げられている。
「それから、コーヒーもありますよ」
「おお……。お前は神様のようだ、この多田野とは違って」
「なあ、武司。僕、何かしたっけ……」
「パン食ったからだろ」
「だから僕のだってばぁ!」
叫ぶ多田野をよそに、桜川はその袋から二つ弁当を取り出すと、井上の前に差し出した。片方は、黒い四角形が特徴的な海苔弁当。片方は、赤い四角形が特徴的なマグロ刺身弁当。
「……そうだな……」
即答するだろうと思われた井上はだが、少しの間考えて、
「では、こっちにしよう」
と、結局マグロ刺身弁当を選んだ。
「はい。それから、コーヒーも」
刺身とは絶望的に合わないであろうコーヒーが、桜川から井上へと手渡される。
「うむ、ありがとう」
だが、井上は柔らかい笑みを見せて、その缶を受け取った。俺は、初めて見る井上のそんな表情に少し驚きながら、海苔とご飯を少し箸ですくって、一口食べた。