16.
ご飯だと清花姉さんが呼んでいます、という清水の声に、俺はああと応えてベッドから立ち上がった。
「お腹がずっと鳴りっ放しです。早く食べましょう」
部屋を出ると、珍しくも清水が俺の部屋の前まで迎えにきていた。普段からお腹が空いたと喉が渇いたについては文句の多い清水だが、今日はより空腹を促す何かがあったのかも知れない。俺は嫌がるその頭を強引にいくらか撫でてやると、台所への廊下を進んだ。そしてそのまま、台所へと入る。すぐに、かぐわしい酢飯の匂いが俺の鼻をついた。
「……寿司?」
「そそ。日本に生まれたからには、やっぱり寿司を食べないとだよねぇ」
そんな純和風な。巻き寿司ならまだしも、握り寿司を家で作る所は、そう多くないだろうと思う。
「特にこの酢飯は、紗季ちゃんが酢加減してくれたんだけど、これがもう絶妙な加減で、泣き叫ぶほど美味しいからね」
「そんなっ。私より、きっとうちわでぱたぱたして下さった清水さんのお陰ですよ~」
「あきゅー。……えっへんです」
既に席に着いている二人と共に、俺と清水も食卓を囲んで椅子に座った。机の真ん中には、平時は使われる事のない皿が、マグロやブリ、あるいはタマゴなどの乗った数え切れないほどの寿司を上に乗せて、思わず圧倒されるほどの存在感をもって置かれている。すぐ隣には、既に各人用に、温かいお茶が注がれていて、俺はとりあえずその一つを取って、わざとらしくすすりながら一口飲んだ。
「……落ち着くな」
「そうだねぇ。やっぱり、和心が大事なんだよ、世の中」
昨日はカレーを出したくせに。一昨々日は中華料理だった記憶がある。
「あつっ。……こ、この水、私とは相性が悪いみたいです」
俺の真似をしてお茶を飲んで、口の中でその熱さに気付いたらしい清水は、そう目を見開いた。
「馬鹿。水じゃねぇから、もっと落ち着いて飲めって」
「私はとても落ち着いています。落ち着きがないのは、この刺々しい水の方です」
「とっても詩的な言葉ですね~」
ぱちぱちぱち、と紗季ちゃんは手を叩いて清水に笑い掛けた。清水は自分が褒められたと知るや否や、まるで大仕事を成し遂げた職人のように、大威張りでまたお茶に手を付けた。
「あつっ」
「……まあ良いや。よし、じゃあ、いただきます」
いつもの三人に紗季ちゃんを加え、一同手を合わせる。温かな食卓は、まるで天国のように感じられた。
食事を終えると、さすがに連夜の麻雀騒ぎという訳にもいかず、各々は各々の部屋に戻ってそれぞれの時間を過ごした。いつもの習慣通り俺が最後に風呂を終えると、時間は十時を少し回ったぐらいになっていた。
明日も、いつも通りとは言え早い。特に何もする事はないのだから、さっさと寝てしまおう。そう思って俺が、風呂後のミルクを取りに台所へ行くと、そこは見慣れた地獄へと変わっていた。
「……あのなぁ」
「あきゅー。……コップが、水アレルギーを再発しました」
「んな訳あるかっ」
水を弾きに弾きにまくっているコップを、無理やりとりあげる。既に台所も清水も、飛び散った水によってびしょ濡れになっていた。無論、今はインフルエンザの流行中である。
「知ってるか、清水。昔から、猿でも反省して、インコでも学習するんだぞ」
「はい。このコップは、反省力も学習力もありません」
「お前だよっ」
あくまで自分のせいではないと言い張りたいらしい清水の頭に手を乗せながら、俺は開いたままの水道栓を閉じた。
「良いか、コップはな、こっちが上なんだよ」
「……ふむふむ」
「ほら、穴が空いてるだろ? こっちからだったら、水が入る訳だ」
「分かりました」
コップを清水に手渡し、また水を出す。清水は受け取ったコップをまた上下逆にひっくり返すと、また水に当ててはね返ってきた水を浴びた。
「武司に騙されました……」
「お前はアホの子か!」
中々、清水の教育は進まない。俺はまた取り上げたコップに水を注いでやってから、清花姉を呼んで清水に着替えさせ、それからコップを渡してやった。
今日も、俺は何もない、空虚なる空間にぷかりぷかりと漂っていた。見守り、話しかける俺に気付いているのかすら定かではない。ただ、目を閉じて、何の能動的な行動をも起こさずに、かと言って受動的な全てを拒否して、浮かんでいるように見える。
「今日は、コーヒーを差し入れてくる変わった女の子が居てさ」
だが、見守る俺は頑固に、漂う俺へと話をした。聞いているとも、聞いていないとも分からないのに。
いや。俺には、聞いているに違いないという、根拠なき確信があった。それが、見ている俺の、唯一かも知れない原動力であった。
<もし、願いが一つ叶うとしたら……>
ある時、どこからか、俺達でない誰かの声が聞こえた。
<何を、願いますか。それとも、願いませんか>
それは、見ている俺に問いかけているようでもあり、漂う俺に問いかけているようでもあった。だが、漂う俺は、何の反応も示さない。
<相応の代償を。それを支払えば、人にできない事なんて……>
そして見ている俺も、何も言わない。
<叶わない夢なんて、ありません>
声の主は、だが、どうやら俺達両方に話しかけているようだった。俺達は、それが分かっても、ただ黙っていた。
そして、意識はまた、空虚へと落ちていった。




