13.
今日も俺は、ただただ何もない空間で、一人ふわふわと浮かんでいた。
何故、俺は一人なのか。他の人は、物は、どうしてしまったんだろう。漂う俺を見ながら、俺はそう考えた。だが、答えなんてどこからも湧いては来なくて。俺はまた、昨日やったように、漂う俺に今日のできごとをつぶさに言って聞かせた。漂う俺がそれを聞いているかなど、何の関係もなしに。
■ ■
六時十分、昨日の耳をつんざくような目覚まし時計の大合唱もなく、俺は晴れ晴れしく目を覚ました。
朝方は誰も起きていないから、実質朝は唯一の一人の時間だ。だからと言って何かする事がある訳でもないのだが、何となく心が躍ってしまう。俺は子供だった。
部屋を出て、洗面所へと向かう。その途中、清花姉が消し忘れたらしい台所の照明を、入り口すぐのスイッチで消した。いつ頃からだったか、清花姉は時々台所の照明を落とさずに眠ってしまう事が増えた。清花姉は老化していた。可哀想に。
洗面所は着いて、顔を洗おうと蛇口を捻る。何となく昨日より暖かい今日には、顔に水をぶつけるだけでも十分な心地良さを得られた。満足した俺が、次に歯を磨こうと歯ブラシを流れる水道水にあてた時、すぐ近くの風呂から叫び声が響いた。
誰の声だろうか、清水かあるいは清花姉か。どちらにせよ、裸を見る事に対する抵抗よりは、危機に陥っているかも知れない彼女らを助ける事に対する義務感の方が大きく、俺は風呂場へと駆け寄って、その扉の前に立った。シャワーの音がして中に人の気配を認めると、俺はその扉を開いた。この時、俺は紗季ちゃんの存在について、全く失念していた。
これまでの人生で経験した事のないほど、そしてこれからの人生でもする機会は得られないだろうというほどに、土下座の中でも最上級な頭を床に付ける体勢で、俺は湯上がりの紗季ちゃんに謝った。
扉を開けたそこに居たのは、体いっぱいにボディソープの泡をまとった紗季ちゃんだった。それもちょうど、その泡をシャワーで流そうとしていたらしく、所々は水で流れて肌が露出しているという、ゲームや漫画のような状況で、しかもその状況をいまいち理解できなかった俺は、その姿を注視してしまったのだった。
「ほんっと、ごめん! もういっそ、グリグリと踏んでくれ……!」
「い、いえ、朝から勝手にシャワーをお借りした私が悪いんです。それに、見られても困るほどのものはありませんから~」
無茶苦茶に謝る俺に、紗季ちゃんは若干戸惑いながらもそう言って許してくれた。
「それに、清水さんから、武司さんは踏まれて喜ぶ方と聞きましたから……本当ですか?」
「それは違うっ」
更に、有益な内部告発情報まで提供してくれた。今日家に帰ってきた時には、とりあえず清水にデコピンしてやる事にする。
「にしても、早起きなんだな。それとも、目覚ましの誤作動とかか?」
「いえ、たまたま早く目が覚めてしまったんです。もう一度眠るのも変かなって思ったので、シャワーをお借りしちゃいました。でも、突然お湯が熱くなったので、びっくりしちゃいました~」
「……あ、ごめん、それも俺だ」
洗面所の水道と風呂場の水道は繋がっているから、洗面所の水道を捻るとシャワーの水圧が下がって、水温が上がってしまうのだ。俺は、上げかけた頭を、もう一度地面にこすり付けた。
朝から、眼福ながら酷い目に遭った俺は、少しの時間の猶予もなくなって急いで家を飛び出た。
さあ、心を仕事用に切り替えねばならない。ただただ無心に、ただただひたすらに、動き回る以外の事を考えていたら、仕事の時間はいつまで経っても終わってはくれない。その点においては、肉体労働の方が知能労働よりもよほど楽だと言えた。あとは生産的だったら、どれだけ良かったか。
一、二、三。一、二、三。職場について作業着に着替えた俺は、そんな何の変哲もないただの三拍子を背景曲にして、また黙々と作業についた。
一、二、三。一、二、三。一、二、三……。
「お仕事中申し訳ありません。ここの、支配人のような方はいらっしゃいますか?」
「…………」
「お仕事中、申し訳ありません」
二度話し掛けられて、やっと俺の意識は現実へと呼び戻され、声の主を道路に空いた穴から見上げた。
「ええと、何か用?」
見上げたそこに居たのは、短い髪に、落ち着いた色合いの服とスカート。それは、ちょうど昨日家にやってきた紗季ちゃんより、一回りほど大人になった少女の姿だった。
「はい。この工事現場の、支配人さんを探しています。差し入れに、安物ですけど缶コーヒーをお持ちしたんです」
「差し入れ? ……現場長だったら、多分向こうの方だと思うけど」
工事の様子を見渡せる、道路から少し離れた草原。その辺りに現場長は、居る事が多かった。
「ありがとうございます。お仕事、応援しています」
「あ、ああ……どうも」
少女は丁寧にお辞儀までしてから、ゆっくりと振り返って去っていった。俺は少しそれを不思議に思いながらも、まだ昼休憩まで時間がある事に気付いて、また心を仕事へと戻した。